通りの中にひときわ目立つ木造の門と「一大農村エリア」の面影
そんなボロ市通りの中に、ひときわ目立つのが実に立派な木造の門。なんだこれはと近づけば、世田谷代官屋敷だという。つまりは江戸時代のお代官様のお屋敷というわけだ。世田谷一帯を預かるお代官のお屋敷まである、世田谷駅の周辺は、世田谷の古くからの中心といって差し支えなさそうだ。
いまでこそ住宅地の真ん中のこの地域、お代官様がいた江戸時代までは農村地帯であった。ただ、そうした中にあっても現在のボロ市通りは大山道の道筋にあたり、それなりの往来があったようだ。代官屋敷を中心としたちょっとした町、といったところだろうか。
そして、この一帯は江戸の近郊にありながら、幕府ではなく井伊氏彦根藩の領地だった。お代官様も幕府のお代官ではなく彦根藩のお代官。近くにある招き猫でおなじみ豪徳寺は、桜田門外で殺された井伊直弼をはじめとする歴代当主が眠る井伊家の菩提寺でもある。
そして、この地域に暮らしていた人たちは、江戸にある彦根藩のお屋敷の掃除など下働きを請け負い、その見返りに下肥をもらい受け、それを肥料として農業を営んでいたのだ。
さらにさかのぼれば、中世には足利将軍家の親族にあたる吉良氏がこの地を治めていたという。世田谷駅の北側の住宅地の中を歩くと、豪徳寺の境内に隣接して小高く木々が生い茂った世田谷城の跡がある。世田谷城は、中世に吉良氏が本拠地を置いた城。後北条氏が関東一円を支配するようになると、吉良氏も後北条氏の傘下に入った。
ちなみに、ボロ市のルーツはこの頃に始まっている。後北条氏四代目・北条氏政は領内の街道として大山道を整備、世田谷城の城下町であったこの地には、世田谷新宿という宿場が置かれた。そして、氏政はここで楽市を開くように命じたのだ。
はじめは月に6度の六斎市、江戸時代に入ると年に1度の歳の市となり、明治になってから12月と1月の年2回になるなど変遷を遂げながらもいまに至っているのだという。この間、吉良氏は後北条氏と共に没落し、吉良の重臣だった大場氏が彦根藩に取り立てられて、世田谷代官として続いている。