1ページ目から読む
5/5ページ目

 そして、1925年には下高井戸線として現在の東急世田谷線が開業する。古くからの地域の中心だった現在の世田谷駅周辺にも線路を延ばそう、というのも大きな目的だったのだろうか。そして、1932年には世田谷区が誕生し、東京特別区の一角に加わった。

 世田谷区内で宅地化が先行したのは現在の国道246号沿い。玉電によって渋谷、ひいては東京都心と結ばれたこと、また関東大震災によって郊外移転が進んだことが背景にある。

 

 ただ、支線が乗り入れるだけの世田谷駅周辺の発展は遅れ、本格的な住宅地として生まれ変わったのは、戦後になってからだ。現在の世田谷通りは、1964年の東京オリンピックに合わせて整備されている。

ADVERTISEMENT

“90万人都市のイメージとはかけ離れた”世田谷線が果たす「役割」

 世田谷の町は、こうした歴史を辿ってきた。だから、世田谷の町は古くからの世田谷の中心であったと同時に戦後に開発された新しい町という顔も持つ。

 

 それぞれが入り組み、交わりあっていまの世田谷の町が形作られているといっていい。どことなく昭和の下町の面影があり、それでいて豪徳寺や代官屋敷などがあり、ボロ市も賑わう。世田谷という遅れてできた大住宅地の本質は、実はこうした町にこそある。

 世田谷駅に戻り、再び東急世田谷線に乗った。

 世田谷線は、豪徳寺と世田谷八幡宮の間を抜けて北に向かい、小田急線と交差する。終点の下高井戸駅は、京王線との乗り換え駅だ。東京都心を中心に、放射状に延びてくる郊外路線。

 

 世田谷区はそうしたネットワークの恩恵は充分すぎるほどに浴しているものの、放射状路線同士を結ぶ便はあまり優れていない。路線バスを除けば、東急世田谷線一本槍といっていい。

 世田谷区民にとって、文字通り世田谷線はなくてはならない足なのだろう。だから、90万都市世田谷を知るためには、膾炙している世田谷イメージとはややかけ離れた、小さな小さな世田谷線にまずは乗ってみるべきなのかもしれない。

写真=鼠入昌史

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。次のページでぜひご覧ください。