農村エリアが住宅地に変わった「きっかけ」
と、まあおおざっぱに世田谷駅を中心としたこの地域の歴史を語れば、このようなところだ。世田谷区全域というといささかムリがあるが、少なくともその大部分は井伊彦根藩の領地として、世田谷代官屋敷を中心に小さな町とその周りの田園地帯から成り立っていたのである。
いまでも、世田谷駅周辺には古くからの中心らしい雰囲気があちこちに残っている。ボロ市通りやその道沿いにある代官屋敷もそうだし、世田谷城の跡や豪徳寺もそうだ。
世田谷駅は世田谷線の中でも比較的地味な存在だが、少し歩けばすぐに両隣の駅にも行くことができる。そちらに足を伸ばすと、松陰神社前駅の脇にはなかなかに賑やかな商店街が南北に延びて松陰神社の鳥居前まで続いている。井伊直弼の安政の大獄で首を斬られた吉田松陰を祀る神社だ。それが直弼の眠る豪徳寺のすぐ近くというのは、何かの縁というべきか。
松陰神社の脇には国士舘大学があり、そこに通う学生たちは商店街の賑わいに一役買っているのだろう。国士舘大学の向かいには世田谷区役所だ。区役所というと、なんとなく市役所より一段劣るイメージを抱いてしまうが、90万都市の役場である。いくつもの庁舎を持つ立派な区役所で、いまは大規模な建て替え工事中。新しい区役所は、さぞかし立派なものになるに違いない。
こうした世田谷駅周辺の活気は、住宅街という要素を除けば原点は吉良氏が治めた世田谷城の城下町、そしてそれを受け継いだ世田谷代官の町にルーツを求めても良さそうだ。
明治に入っても、東京近郊の農村地帯というこの地域の本質は長らく変わらなかった。むしろ、東京近郊の農業生産地として、つまりは食料基地として重宝されたに違いない。明治の半ばには三宿や池尻一帯に練兵場などの軍事施設が設けられたが、世田谷の中心には大きな変化は生まれなかった。
1907年、世田谷区内には玉川電気鉄道の線路が通る。現在の国道246号を走り、多摩川の河川敷と渋谷を結ぶ路面電車だ。まだまだ住宅密集地にはほど遠かった世田谷にあって、玉電の最初の目的は多摩川の砂利輸送。