というのも、いまの県道21号線、つまり駅前の大通りは、ルーツを辿ると江戸と浦賀を結ぶ浦賀道にある(武士の町・鎌倉に通じる鎌倉街道でもあった)。

 江戸と浦賀、つまりペリー艦隊がはじめ浦賀に現れたときは、いまの上大岡駅前を馬に乗った幕府の使者たちが駆け抜けた、というわけだ。鉄道の時代になった近代以降もそうだし、それ以前の時代でも川が刻んだ谷あいは、重要な道筋として重宝されていたのである。

 ただ、そういう時代があったといっても、上大岡が“副都心”として発展するのはだいぶあとになってからのことだ。長らく谷あいの小村に過ぎなかった。

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花街、刑務所、さらには“UR”がやってきた100年前「上大岡」の変化

 変化の兆しは大正時代にやってくる。まず、上大岡の北にあった弘明寺の町に横浜高等工業学校が開校することになると、移転を強いられた花街が大岡川沿いのいまの上大岡付近にやってきた。1920年のことだ。なんでも「浜の箱根」を称していたとかで、いまのパサージュ上大岡のアーケードは花街に通じる小径。古くは「箱根通り」などと呼ばれていたという。

 さらに、根岸にあった横浜刑務所が関東大震災で被災すると、移転先として上大岡に白羽の矢。その当時は近い将来の発展が見込めない町ということで移転先に選ばれたそうだが、それでも刑務所ができればそこで働く職員たちの住宅も建設されるなど、発展の足がかりになった。

 

 また、この時期には同潤会の大岡住宅も建設されている。東京都心の同潤会アパートの名で知られる同潤会は、内務省肝いりで発足し、関東大震災後に不足した住宅供給を担った法人だ。つまりはのちの住宅公団、URの先駆けのような組織といっていい。同潤会はアパートスタイルの同潤会アパートだけでなく、戸建てが集まる住宅地の建設も各地で行っている。そのひとつが上大岡の大岡住宅だった、というわけだ。

世界シェアの約8割を横浜が占めた一大特産物

 ただし、この頃はまだ京急線の上大岡駅は開業していない。京急線が上大岡まで線路を延ばしてきたのは1930年のことだ。なお、この3年前の1927年には横浜市に編入されて名実ともに横浜の町のひとつになっている。

 つまり、この大正時代の半ば以降に上大岡はのちの副都心としての基礎が形作られたというわけだ。

 この時期には、大岡川沿いに捺染業者の進出も見られている。捺染とは、簡単に言えば布を染めること。幕末の開港以来、生糸の集積地になっていた横浜ではシルクのハンカチやスカーフの製造が盛んで、昭和に入ると大岡川(や帷子川)の豊富な水を背景として多くの捺染業者が進出していった。