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 戦後は昭和30年代には「横浜スカーフ」として世界に知られたブランドに成長、世界シェアの80%近くを横浜が占めていたというから、とてつもない一大産業であった。上大岡は、そうした産業をも背景にして副都心としての形を整えていったのである。

 

 戦後の発展は、実にめざましい。1963年には駅に隣接して京急百貨店が開店すると、それを合図のように周囲にはいくつもの商業施設がオープン。人口の増加に伴って丘陵地を切り開いた住宅地が次々に生まれ、1972年には横浜市営地下鉄の上大岡駅も開業している。

1980年代を過ぎて町の“主役”が入れ替わった今も「あの頃の名残」が見える場所が…

 いっぽうで、捺染は1980年代以降徐々に衰退してゆく。ファッション嗜好の変化や1985年のプラザ合意による急激な円高が背景だという。いまでもいくつかの捺染業者が川沿いに残っているそうだが、むしろ上大岡の“副都心”としての地位は、捺染の賑わいと入れ替わるように定着してきたといっていい。

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 1996年には「ゆめおおおか」が開業、2000年代以降は三越や長崎屋、イトーヨーカドーといった商業施設が閉店するものの、入れ替わるように新しい商業施設が生まれ、本質的な賑わいは変わらずにいまに至っている。

 

 いまの上大岡には、ドトールもマクドナルドも映画館も、ヨドバシカメラだってある。横浜駅前に勝るとも劣らない、実に文句のつけどころのない副都心なのである。

 

 駅前の大通りを渡って、かつての箱根通り、パサージュ上大岡を抜ける。その先の大岡川の手前には、大通りと並行するように南北の裏道が通っている。これが、かつての浦賀道、鎌倉街道である。いまでも昭和の時代の商店街の名残があちこちに見られ、同時に多くの旧道がそうであるように抜け道としてクルマの通行量も多い。古い商店を再利用したオシャレな店もあるし、行列のできる店もあった。

 
 

 こうした歴史を伝える町並みと、メインストリートのごとき大通り、チェーン店ならばすべて揃っているであろう商業施設群。川沿いは散策にぴったりだし、坂を登れば静謐な住宅地。京急線に地下鉄と交通の便は文句なし。

 

 それでいて、他の地域からもたくさんの人が来訪するほどのターミナルではなく、生活感もにじんでいる。上大岡は、実によくバランスの取れた副都心なのである。こういう町を持っているということこそ、日本第二の都市・横浜の底力なのかもしれない。

 

写真=鼠入昌史

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