情報誌『ぴあ』から広がった映画仲間
―― 『お茶の子博士』は日大芸術学部に進学してからですね。日芸に進学したのは、プロになろうと決めていたからですか?
手塚 映画はやっていきたかったけど、プロになるために何かやろうという考え方はあまりしてなくて。それよりも、まずもう一本ちゃんと作りたい。『FANTASTIC★PARTY』はあまりうまくできなかったと自分では思っていて、その後の作品は習作的なものなので、もう一本きちんと作ってみたいという気持ちが強くて。受験の間に書いた『MOMENT』の脚本は、最初は「ポッキーの一番長い日」というタイトルで、ほとんど一晩で書いた。その時にはもう映画作りの仲間ができていたんです。今関あきよし(注2)さんや小林弘利(注3)さんとか。そういう人たちに見せて、「大学に入れたらこれを作るので、皆さん手伝ってください」という話をして。
―― 今関さんたちは『ぴあ』を見て『FANTASTIC★PARTY』を上映する文化祭に来たんですよね。
手塚 高校生でも『ぴあ』の自主上映欄に上映情報を載せることができたんです。今関さんたちがそれを見て、題名を気に入って来てくれた。彼らは自分たちの映画と一緒に上映する映画を探していた。見終わったらすごい喜んで、「ぜひとも一緒にやりましょう」と言ってくれたので、こっちもそれで舞い上がって、という感じでした。
―― 今関さんたちが『ボーイハント』という自分たちの映画と『FANTASTIC★PARTY』の上映を一緒にやろうと言い出して、1年間ぐらいやりましたっけ。
手塚 2年ぐらいやったと思います。
―― ずっとやってましたよね。としま区民センターで。
手塚 そうですね。今度は一般のお客さんでお金も払って来ている人たちにそこで作品を見せるということの重要性、そこでも勉強したような気がするんです。
注1 山本奈津子 成蹊高校映画研究部で小中と同期。「TURN POINT10:40」(1979)主演。日活の女優は同姓同名の別人。
注2 今関あきよし 映画監督。『ORANGING’79』でPFF入選。『アイコ十六歳』(1983)で商業映画デビュー。
注3 小林弘利 小説家、脚本家。『星空のむこうの国』(1986)で脚本家デビュー。代表作『死に花』『江ノ島プリズム』など。