いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちには、8ミリ映画を自主製作し、才能を見出され、商業映画にデビューした者たちが少なくない。
そんな日本映画界の「青春時代」を、自身も自主映画出身監督である小中和哉氏が聞き手として振り返る映画ファン必読のインタビューシリーズ第3弾は、『ばるぼら』などの商業映画からアートフィルムまで多岐に活躍するヴィジュアリスト、手塚眞監督。(全4回の1回目/#2、#3、#4を読む)。
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ヴィジュアリストとして商業映画からアートフィルムまで幅広く活躍する手塚眞監督は、僕にとっては、高校の映画研究部の一つ上の先輩。当時小学生の時から大ファンだった手塚治虫さんの息子さんと同じクラブになったことに驚いたが、眞さんの天才的な映画作りにも驚かされ、自主映画から商業作品へ進む姿に大きな影響を受けてきた。共に過ごした8ミリ時代を振り返りつつ、手塚監督のユニークな映画観を語っていただいた。
てづか まこと 1961年東京生まれ。父は漫画家・手塚治虫。成蹊高校在学中に8ミリで映画製作を始め、大島渚監督を初めとする映画人の高い評価を得る。日大芸術学部在籍中から映画、テレビ、ビデオを初めとする様々なメディアで活躍。映画を中心としながら、小説やデジタル・ソフト、イベントやCDのプロデュースも手掛け、先進的な内容やスタイルが注目されている。主な作品に『星くず兄弟の伝説』『妖怪天国』『白痴』『ブラックキス』『ばるぼら』など。
成蹊高校映画研究部で初の8ミリ作品を製作
―― 手塚さんが成蹊高校映画研究部に入部した時、どのような印象を持ちましたか?
手塚 まず先輩がしっかりしていたということですね。社会派のドラマも作っていたし、脚本の段階から討議して、すごく真面目に作っているんだなという印象があった。僕は一緒に入った仲間とテレビの『空飛ぶモンティ・パイソン』みたいなくだらないのを作ろうと思っていたんだけど、そんなこと言っていられないなと。
―― 手塚さんが1年の時に監督したのは寺田敏雄(注1)さんですね。
手塚 僕の1つ上の代がいなくて、その上の3年生です。本当にしっかりと映画を作っていた人たちで、今でも寺田さんは脚本家として仕事をされていると思います。
―― 手塚さんが2年になって新入生として映研に入ってきたのが僕たちです。文化祭映画を手塚さんが監督で作りました。