明治に入る以前の旭川は、神居古潭などの渓谷で周囲と隔てられていることもあって、大きな町は存在しなかったという。アイヌの小集落があり、複数の大河川が合流する肥沃な地として知られてはいたものの、本格的な開発は明治になってから。明治初期に盛んに調査が行われ、1885年にはのちの初代北海道庁長官・岩村通俊が「北京を上川に奠くの議」を内閣に提出している。

 かんたんにいえば、上川盆地の中心、つまり旭川を北の京にしようと岩村は考えたのだ。この構想が実現することはなかったが、言われてみれば、周囲を山が取り囲む盆地という特徴、またいくつもの川が流れていることなど、京都によく似ているような気がしてくる。

 京都ももとを辿れば人工的に整えられた碁盤の目の町だ。美しい町でありながら、なんとなく閉塞感・圧迫感を感じるのも盆地ならでは。旭川は、京都とそっくりな町なのである。

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「逃げたら銃殺」囚人たちの苛烈な労働、迫るロシアのカゲ…旭川のくぐり抜けた“時代”

 明治半ばには屯田兵が入植、1898年に鉄道も神居古潭の難所を抜けてやってくる。鉄道や道路の工事にあたっては、北海道の監獄に収容されていた囚人たちが従事している。厳しい工事に耐えかねて逃亡を企てるとその場で銃殺されるような、苛烈な現場だったという。

 

 そして、1899年以降には陸軍第七師団が札幌から移転してくる。日露関係が緊迫度を増してくる中で、北方の守りの要を担うようになったのだ。以後の旭川は、軍都として発展する。移民は飛躍的に増加し、第七師団の将兵たちを当て込んだ商業地も生まれる。

 この頃、駅前からまっすぐ北に向かって石狩川を渡り、第七師団に向かう道筋は「師団通り」と呼ばれていた。それが戦後、師団を失って買物公園に生まれ変わる。約1kmもの歩行者天国は、時代の移り変わりの中で誕生したのだ。