マッチングアプリへの否定的な感情
とはいえ、マッチングアプリに対しては否定的な感情を抱く人は多いでしょう。特に高齢世代では、マッチングアプリという単語を聞くだけで眉を顰める人も少なくないという印象です。
正直、私自身も世代的な感覚としてその心情がわからなくもないのですが、その理由は何かと考えてみると案外難しいものです。私は以前に書いた論考で、大きく2点その理由をあげました(以下の議論は「マッチングアプリは「家族」を変えるか」をもとにしています)。
まずひとつの理由として、マッチングアプリでの出会いが「正しい出会いではない」という認識があるように思います。
今も「マッチングアプリで出会った」と周囲に伝えるのをためらう状況があると聞きます。これはつまり、「正しい出会いはこうだ」「普通の出会いはこういうものだ」という何かしらの想定が人々の価値観のなかにあって、マッチングアプリはその「正しさ」から外れているという感覚があるわけです。
しかし、結婚の歴史を見れば「出会いの正しさ」をめぐる社会規範は変化し続けてきました。
ほんの数十年前の日本では「好きな人と結婚する」こと自体が否定的にみられ、まともな家の人間なら「見合い」を経て結婚するものだと考えられていたのです。
90年代には「合コン」が普及しますが、現在でも結婚披露宴では「友人の開いた食事会」という慎重な言い回しが用いられたりします。つまり、われわれの抱いている「出会いの正しさ」は、さほど自明なものではないということです。
今日スマホを使用しないで知人と連絡をとることが不可能なように、デジタル化が進行する社会において、マッチングアプリが今後その存在感を増していくことは不可逆的な現象ととらえるべきだと思います。
もうひとつの理由として、「マッチングアプリの出会いは危険だ」という意識の存在があるように思います。
相手の素性が知れないことやその手軽さが「リアル」な出会いに比べて危険だという認識です。実際にニュースでもマッチングアプリに関連した事件がたびたび報道されるので、人々がこうした懸念を抱くのも、もっともにも思えます。ただ、本当に「マッチングアプリだけがそんなに危険なのか」という視点も大切でしょう。
こちらも歴史をみれば、男女の出会いを危険視する言説は、いつの時代もあふれていました。
戦前は男女が同じ空間にいること自体を危険視する道徳が規範化されていましたし、戦後も学校教育で男女交際を危険視する言説は長い期間支配的でした。結婚媒介業や結婚相談所も、すでに明治時代には数多く存在しており、当時からその危険性はさまざまなメディアで語られていたのです。
自分たちの世代になかったものや新奇なものを過度に危険視してしまう傾向は、普遍的な現象なのかもしれません。