人間だけが本来の生命の在り方を忘れて貯蓄に励んでいる

小川 たとえば日本のコミュニティだと、経済的に困っている人がいたら「皆でカンパしあおう。その代わり私が困っている時には助けてね」と取り決めたりする。でも、いつか必ずお返しができるかどうかは分からない。だからタンザニアの人々は、そういったことを曖昧にしておくわけです。「私はこれだけ相手を助けたのだから、同じ条件で助けてもらえるはず」という計算が働くと、利他が商取引のようなものにスライドしてしまう。その結果「私は頑張っているのに、あの人はサボっている」という不満や「私ばかり助けてもらっているのに何もお返しできていない」という不安が蔓延し、息苦しい社会になるんじゃないかな、と。

福岡 自然環境は流転しているから誰がどのタイミングで余剰を得るかわからない。さきほどのコウモリの例もまさにそう。幸運にも、その日たまたまたくさん血を吸えた個体が、アンラッキーだった個体に恵んであげる。こうして血縁の有無に関わらず助け合うことで、結果的に自分も生きのびられるのです。

小川 対して私たちの社会はあまりにも市場交換的な発想ですよね。「私はAさんを助けたのだから、Aさんは私に恩を返して」と期待するわけですが、その発想だとAさんが死んでしまった時に生きのびていけない。

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福岡 そもそも人間以外の生物は基本的にその日暮らしで、未来に対する不安も過去に対する後悔もない。生物にとって“貯蓄”という行為は不要なんです。食料を貯めすぎるとすぐに腐ったりしてしまうから、その日生活できるだけの資源があればこと足りるし、余剰があるならそれは他の誰かに渡してあげたほうがいい。人間だけが本来の生命の在り方を忘れて貯蓄に励んでいる。その日暮らしができるかどうかは、時間感覚も関係しているのでしょう。

小川 タンザニアの商人たちを見ていると、助ける相手を過度に選別していないことが多々ある。彼らは大統領秘書や政治家、企業の社長から詐欺師や泥棒まであらゆる人脈があり、何かのついでの機会があればどんな相手でも助ける。それは自分自身の人生がどう転ぶかわからないから。たとえば詐欺に遭った時に一番良いアドバイスをくれるのは警察より詐欺師だったりしますから。つまり、助ける対象を選別して誰に“投資する”かを考えるのは時に不合理。他者の人生は自分の力の及ばないところで分岐していくわけで、タンザニアの人々はそういった他者の変化に自分の身を委ねられるんです。