翌日、堀江に会うと、このままではフジテレビとの提携交渉は立ちゆかなくなると訴えた。
「じゃ、園田さんがうちに入ってよ」
これで園田はライブドアに転じることになった。「起業のための最後の修業と思って決めました」。園田は後にIoT関連のウフルを起業することになるのだが、この時点ではいずれメディア関係の会社を起こそうと考えていた。だから、堀江が描く「メディアを利用するヤフー超え戦略」には大いに関心があったのだ。それに、電通時代にはフジテレビを担当していた経験もある。起業の準備のためにスタートアップを経験するなら、ライブドアは悪くない選択だと思えた。
園田は3月1日付でメディア事業戦略室長兼副社長として入社した。任せられたのはフジテレビとの提携交渉だが、実質的には和解交渉と言う方が正確だった。
「もう詰んでいますから」
「新聞やテレビなんていずれネットに飲み込まれる」
堀江がメディアに登場して挑戦的な発言を繰り返す一方で、ますます財界からの反感が膨れ上がるのを、当事者としてライブドアに入社すると嫌でも思い知らされる。
この頃には様々な財界人がライブドアとフジテレビの間を取り持つ仲介役として名乗りを上げていた。例えば、アラビア石油創設者で「アラビア太郎」こと山下太郎の息子もその一人だが、フジテレビにニッポン放送株を売り戻すよう求める仲介者たちの言葉に、堀江がうなずくことはなかった。
大物仲介者
フジテレビとの「提携交渉」に忙殺される一方で、園田は個人的な人脈をたどって一計を案じた。頼ったのが初代経団連事務総長の和田龍幸だった。年齢は30歳以上離れているが、鹿児島県鹿屋市出身の同郷で、和田の親族は園田の実家が経営する病院に通院していた。地元の名門ラ・サール高校の先輩にもあたる。
園田は和田に、ある大物との面談を申し入れた。
3月18日、堀江と園田を乗せた車が六本木ヒルズを出ると、後ろからはいつものようにテレビ局の車が追いすがってきた。堀江の一挙手一投足はテレビだけでなく新聞や雑誌も含めて、あらゆるメディアから追いかけられていたのだ。
二人を乗せる車が向かったのが、東京・新木場のヘリポートだった。ヘリに乗り換えられると、メディアはもう手が出せない。ヘリは新木場を飛び立つと一路、西へと向かって飛び去った。
向かったのは、直線距離にしておよそ250キロ離れた愛知県豊田市トヨタ町1番地。トヨタ自動車の本社だった。堀江らを待ち受けていたのはトヨタ会長であり、「財界総理」と呼ばれる経団連会長も兼務する奥田碩だった。巨大メディアを相手に繰り広げる劇場型のM&Aに、財界総理の理解を得ようという狙いだった。
ヘリに揺られる堀江は、いつも通りのTシャツ姿。実は園田は自分のジャケットの中にもうひとつ、堀江用のネクタイを忍ばせていたのだが、堀江は襟付きのYシャツすら着ていないのでどうしようもない。
「僕も気分が高揚していたので、『こうなったらもう、普段の堀江さんのままでいいや』と開き直りました」
相手は戦後に日本が築き上げてきた重厚長大産業主導の経済界のトップに立つ人物である。園田は「一喝されて終わりかなとも考えました」と言うが、奥田の表情は拍子抜けするほど明るかった。