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すべての女性は美しい…は残酷な欺瞞である

すべての女性は美しい…は残酷な欺瞞である

石田月美『まだ、うまく眠れない』(文藝春秋)より #2

19時間前

source : ノンフィクション出版

genre : ライフ, ライフスタイル, 読書

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咳をしてもブス

 先日、新宿で友人とお茶をしていた。その友人は3回目の結婚を控えておりパートナーとも円満だが自分の会社の経営が忙し過ぎて入籍日が決まらないと、私の人生5回分くらいの充実した日々を愚痴っていた。ちなみに、その友人は私より身長が低く2倍くらいの体重があり30倍くらいコミュニケーション能力が高い。そして不美人である。

 私は彼女の濃すぎる毎日に圧倒され「私なんかさ、毎日毎日自宅で原稿書いてるだけじゃん? 一週間くらい鏡見ないなんて平気であるし家族以外の人に会ったのだって今日が一ヶ月ぶりだよ。もう自分の美醜とかどうでもよくなるよね」と愚痴った。すると彼女は首を振ったあとハッキリ言ったのだ。「あんたね、それはあんたが美人だから下駄履いてんだよ。あたしだって経営者だからほとんど会社に顔出さないしオンラインで銀行に融資申し込んで納品の手配してずっと部屋着のまま一日終わるよ。でもね、ブスはたった一人でいても、あー自分ブスだなーって思い続けてるの。『咳をしてもブス』。そんな感じ」。私はこの自虐と哀愁のはざまに生まれた自由律俳句に感嘆し、思わず彼女を抱きしめ「それ、書いても良い?」と聞いていた。我ながらサイテーである。

「咳をしてもブス」。すごい。それに比べれば私が美人だから受けてきた、誤解や嫉妬に人間関係のトラブルなんてとるに足らないんじゃないかと思えてくる。もちろん人の苦悩に優劣はないし比べるものではないのだけれど、嗚呼(ああ)咳をしても美人、と悲嘆に暮れたことはない。それだけで相当下駄を履いていると思う。

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 ただ、得をしてきたからこそちょっとわかることがある。美人であることによる得は大体においてめちゃくちゃ下らないってことだ。若いときは美醜というものが圧倒的なパワーを持っているように思えた。どんなに親から「うちの子って世界一可愛い!」と育てられようと小学生くらいになればなんとなく自分の美醜レベルはわかってきて、それによって周囲から受ける扱いが違うことだってあった。若いときは振り返る後ろもないし立ち止まる余裕もないから美醜は圧倒的なパワーであるかのように錯覚したし、その嵐の中にいるしかなかった。

 しかし年齢を重ねると、老けるから美の第一線から退かなければならなくなるということもあるが、それ以上に振り返る後ろがあり現在に立ち止まる余裕が出てくる。そうなると美人であることの得は瑣末(さまつ)で下らなくなってくる。これは若かりし頃の得がたいしたことなかったというのではない。そうではなくて、大人になると美醜なんかよりもっともっと大事なことが増えて、そっちで勝負しなければならなくなるということだ。モデルや女優などの美を職業にしている人々ですら演技の上手さや私服のセンスの良さ、生活の丁寧さなどが求められる時代だ。いわんや、我々をや。

『まだ、うまく眠れない』