ゴム風船のように膨らんでいた道端の兵士の遺体
街はまだ燃えている。道に座り込んでいる男性に眼を向けると、上半身は骨のみになっていた。小学校1年の甥の行方もわからない。東練兵場はすでに救護テントが並んでいたのでそこへ探しに行こうとすると、
「ゴム風船のように膨らんどった」
道端には上半身裸の兵士たちの遺体が並べられていた。激しいやけどのためにその体は膨れ上がっていた。
救護所にいた1人の若い女性に目が向く。着物は身に着けていない。背中一面の大やけどである。看護師さんが白い薬をはけで塗っていた。「むごい」の一語。やっと、叔父と叔母が救護所に収容され手当を受けていることがわかって見舞いにいくと、どちらも怪我さえしていなかった。しかし叔父は被爆から6日後、叔母は8日後に亡くなってしまった。2人とも、強烈な放射線を浴びていたのだった。
爆心地から500mの場所で整列していた1年生
強烈な被爆体験を持つ山本さんには、あの日から80年近く経った今も忘れられない思いが、もう1つある。それは「1年生のこと」。
旧制中学は5年制である。終戦間際になると高学年の生徒はおもに軍需工場へ動員された。工場は結果的には爆心地から離れていて、直撃を免れた生徒も多い。このことからも原爆が軍事施設より市街地の攻撃を目的としていたことが分かる。
一方、国民学校高等科と中学校の低学年1、2年生は、建物疎開作業に駆り出されていた。空襲時の延焼を防ぐため、予め建物を間引いて帯状の火除け地を作るのである。連日の作業による学業の遅れを取り戻すため、1年、2年生は夏休み中も授業と作業を1日置きに交互で行った。山本さんら2年生は、6日は登校日だった。学校へ行っていれば市内中心部を歩くことになって、
「完全に私は死んでる」
ところが前日5日、引率の教師より指示が出た。「明日は練兵場で芋畑の草取りをしてもらう」。これで山本さんたち2年生は助かった。1年生は建物疎開作業だった。場所は本川に架かる新大橋(現在の平和記念公園の西側)付近の土手、爆心地から500mの場所であった。整列し、引率教師から点呼を受けていたころ、爆発が起きたとみられる。
この場所で非業の死を遂げたと思っていたのに…
前の日は1年生たちが作業していた場所で、自分も同じ作業をしていた。草取り作業に駆り出されなかったら――。偶然のめぐりあわせへの思い。
「(後になって)あのあたりの瓦をみたら表面が一瞬で溶けてね、綺麗に泡状になっていた。物凄い高熱の衝撃をね、1年生たちは頭から浴びた。1年生はみんなこの場所でね……非業の死を遂げたとだけ、ずっと思っていました。学校からも詳しい説明はなかった。ところが、分かったんですよ」
爆心地で1年生はそのまま亡くなったと長年思っていた山本さん。力を込めて続ける。
「実際は3分の1はその場で亡くなって、(残る生徒のなかには)必死になって自分の家へ帰って亡くなったり、道端で力尽きて死んでる子、川に流された子もいた。1年生はそういう状況だったと、はじめて、テレビで知ったんです」