爆発点の温度は瞬時に摂氏数百万度となり、0.2秒後には直径400mの火球が発生、強烈な熱線が放出され爆心地周辺の地表面は摂氏3000~4000度に達し、秒速440mの爆風が放射状にあらゆるものをなぎ倒し、約10秒でほぼ市街全域にまで到達した。
熱線を受けた人々の皮膚は焼き尽くされ、内臓までも破壊され…
鉄の融点は約1500度である。爆心地から約1.2km圏内で熱線を直接受けた人々の皮膚は焼き尽くされ内臓までも破壊され、ほとんどの人が即死するか最重度の火傷を負い、半径2km圏内のほとんどの木造家屋は全壊した。
街は朝10時ごろから午後2時ごろを頂点にして終日燃え続け、大量に放出された放射線により、1km圏内の人はたとえ爆発の瞬間に生き残れたとしても、数日のうちに多くが亡くなった。街は崩壊し、悲鳴とうめき声が響く地獄となった。
この火球を見た人が、今も健在だった。山本定男さん。昭和6年生まれの93歳。山本さんはあの日、広島県立第二中学校(広島二中)の2年生、14歳の少年だった。
直径400mもある巨大な火炎が空高くたちのぼっていた
「なにしにきたんじゃろうか」
少し前、空襲警報はすでに解除されていた。
全国各都市が大編隊での夜間絨毯爆撃を受けているなか、上空にはたった3機のB29。山本さんも2機はわかった。このとき2年生は陸軍の演習場・東練兵場で草取り作業をしていた。芋畑に転用されていた原っぱのような場所。生徒たちは草を引き抜く手をとめて空を見上げた。夜間でもなく大編隊でもない、こんな朝に。偵察だろうか。
するとB29は反対方向へきびすを返した。「逃げているのか」――と思った途端、「大爆発。巨大な岩が一瞬で砕け散るような音」のあと、強烈な熱風で山本さん含む200人ほどの生徒たちは吹き飛ばされた。東練兵場は爆心地から2.5kmの距離だった。
顔の左半分に大やけどを負いながらも、すぐ立ち上がった山本さんが広島駅のほうをみると、巨大な火炎が空高くたちのぼっていた。爆発直後、数秒のうちに発生したと言われる直径400mもある火球を、山本さんは目撃したことになる。
近くの尾長天満宮に避難したが、傷の手当は天ぷら油をぬってもらうだけだった。夕方、練兵場より東側にあった自宅にたどり着くと家は破壊されていたものの家族は全員無事。ただ叔母の安否がわからない。爆心地から400mほどの場所に暮らしていたので、翌7日、様子を見に行くことにした。