広島市に原子爆弾が落とされてから、今日8月6日で79年となる。「リトル・ボーイ」と名付けられたその新型爆弾によって、市街地は一瞬で焼け野原となり、1945年(昭和20年)12月末までに約14万人が命を落としたと言われている。

 この悲劇を実際に体験したのが、被爆者のひとり、山本定男さん(93)。山本さんは、広島県立広島第二中学校(広島二中)の2年生だった14歳の時、爆心地から約2.5kmの東練兵場で被爆した。現在は、原爆の記憶を風化させないよう、被爆体験を後世に語り継いでいる。

 山本さんは自身の強烈な被爆体験とともに、忘れられない思いがある。それは広島二中の1年生のこと。爆心地から約500mの場所にいた1年生は「みんなその場で非業の死を遂げたと思っていた」という。しかし実際は約3分の2の生徒が、必死になって自分の家へ帰った後に亡くなったり、道端で力尽きたり、川に流されていたことが分かった。

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 地獄と化した広島市街地で、子どもたちはどのような最期を迎えたのか。ノンフィクション作家のフリート横田氏が、山本さんの証言と資料をもとに、原爆投下直後の様子を伝える。(全2回の2回目/1回目から続く)

広島市内中心部の原爆被災状況 ©時事通信社

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「お母ちゃんと叫びました」大やけどを負って川に飛び込んだ子どもたち

 原爆投下から24年後。昭和44年に広島テレビ放送が、広島二中の1年生たちの遺族を探し、少年達の最期を追跡調査した。ほとんど知られないまま世を去った子どもたちの投下直後の様子が、遺族から寄せられた手紙などからある程度わかった。それぞれの最期の様を、広島出身の女優・杉村春子が1人朗読した番組が「碑(いしぶみ)」である。

 いま筆者の手元に、放送時の草稿をもとにした記録集「いしぶみ」がある。少年たちの原爆投下直後の様子を、あえていくつか紹介したい(※子どもたちの名は、個人情報保護の観点から、下の名のみ記す)。

 原爆投下直後、熱線で砂までが燃える状況下、川に飛び込む子どもたちは多かった。旧制中学で学ぶ優秀な子どもたちである。軍国教育を叩き込まれている。やけどした身体が水に沈まないよう、励まし合って、いさましく軍歌を歌った。それでも、

文洋君
「お母ちゃん、お母ちゃんと叫びました」

茂樹君
「泳ぎのできない友人が“ぼくらは先に行くよ”といって、万才を叫んで川下に流れていきました。みんなお母ちゃん、お母ちゃん、と大声でいっていた」

 その後、遺体で一杯の川からはい上がれた子どもたちのうち、失明していなかった子らは父母の待つ家へ向かった。栄養状態が悪く、現在の小学校高学年程度の体格しかなかった子どもたち。燃える街から4、5kmの道を、全身やけどを押して歩いた。