「わが子とは思えない、やけどにくずれた顔で…」
枕木だけになった鉄道橋を四つん這いで渡る子、川を泳ぐ子、家へたどり着ける子もいれば、橋の上、病院の玄関、貯水槽のなか、路傍、色々なところで力尽きているのを、探し回った親に見つけてもらった子もいる。
邦男君の父
「名前を呼ぶと“お父ちゃん”と、わが子とは思えないやけどにくずれた顔で返事しました。お父ちゃんはきっときてくれると信じていた、といいました」茂君の母
「(収容された寺で最期の様子を聞くと)おおぜいの人が、両親の名を呼んでいる中で、子どもは“夢の中でお母さんやお父さんに会う”といっていたそうです」茂樹君の母
「みんなお母ちゃんといって死んだよ、夜はとても寒かった、水は川におりて飲んだが潮水はおいしいね、といっておりました。10日午前1時、死亡しました」明治君の母
「(弟、妹に別れの言葉を言ったあと)死期がせまり、わたしも思わず、お母ちゃんもいっしょに行くからね、と申しましたら、あとからでいいよ、と申しました。(中略)お母ちゃんにあえたからいいよ、とも申しました」淳君の母
「お母さん、帰りましたよ、といってくれたのですが、顔がやけどではれあがり、手当のしようがありませんでした。やけどで痛かったのでしょうが、友だちの名をよんではがんばれといい、思いきり水を飲みたい、と申しました。数をかぞえてみたり、友だちの名前をよんだりして気をまぎらわし、がまんして苦しいとひと言ももらさず、その夜、7時半に死んでしまいました」
当時、大やけどした者に水を飲ませると死んでしまうと信じられていた。水をほとんど飲めずに亡くなった人は多い。はさみで切らないと服を脱がせられないほど皮膚と布がくっついてしまいながら、それでも「弟にやってほしい」と救護員からもらった乾パンを持ち帰った子、家にたどり着きながらもうわごとをいうだけになったり、口はもうきけず、目も見えず、苦しみ抜いて亡くなった子、お父さんお母さんには会えず、亡くなった子も大勢いたことが不憫でならない。
こうしてお父さんお母さんに会うことができて、いくつかの証言を残した子たちも、数日以内に亡くなった。広島二中1年生6クラス321人と引率教師4人は、原爆投下日から6日後の12日までに、結果的に誰一人助からず、全滅した。