ひもじかった戦時中
東京・乃木坂で生まれ、新交響楽団(現NHK交響楽団)のヴァイオリニストだった父の下で育った私は、戦前は不自由ない食事ができていました。そんな家庭ですら、戦争が始まるとあっという間にモノは消え、お金があっても食糧が手に入らない状況に陥りました。
朝、母が「上手く按配して食べなさいね」って、煎った15粒の大豆を渡してくれるの。ぽりぽり食べるとすごくおいしくてね。「食べたらお水をたくさん飲むのよ」とも言われました。小さい子どもがお豆を食べて、お水をいっぱい飲むのよと言われて。ちゃんと飲まなきゃと思って一生懸命お水を飲んで、お腹を膨らませようとする……やはりこれが「戦争」なんだなと思います。
朝からちょっとずつ食べていって、残りの大豆は何粒だろうと、電車で数えながら学校に向かったりしてね。日中、空襲警報が鳴るたびに校庭の防空壕に入るんですが、そのなかでも大豆を食べながら、空襲が終わるのを待っていました。
母には「途中で全部食べちゃったら、家に帰ってきても何もないのよ」と言われたのを覚えています。だから家で食べる分の大豆を残さないといけないけど、空襲で死んでしまったら無駄になる。でも、全部食べて死ななかったら、夜食べる大豆がなくてお腹が減っちゃう……防空壕のなかでは、そんなことを考えながら過ごしていたものです。
空襲警報が鳴り止むと、学校から帰って良いですよって言われてね。それで帰って、家が焼けずに残っていると、毎回「あぁ、よかった」と安心するの。今考えると不思議な気がしますよね。あんな危険な時にどうして学校に行かせたのかしら。あの年齢のうちに勉強しておかないといけないのは分かるけど、食べものがろくにないわけでしょう。勉強したって大して頭の中には入ってなかった。母も「大丈夫かしら」と心配しながら、食糧がなんとか手に入らないか考えながら家で待ってたり、父は父で仕事から急いで帰ってきたり。家族みんなが、家が焼けていないか、死んでいないだろうかとびくびくしながら生きてるわけだから、本当に……なんて言うんでしょうね。まぁ、最悪よね。
それでも、大豆があったときはまだ良いほう。次第に大豆すらも手に入らなくなってね。海藻麺というものが配給されるようになりますが、これがほんとうに美味しくなかったのよ。海に打ち上げられた海藻を粉にして、麺状にした食糧なんですが、お湯で茹でて、お醤油もお塩もないから、そのまま何もつけないで食べる。味もなければ栄養も全くなくて。そんな食事が続くから、戦況がひどくなるころには栄養失調に陥っていました。体中に「おでき」ができて、指先は「瘭疽(ひょうそ)」といって、細菌感染で炎症を起こしていた。ひどくなると膿んで、ズキンズキンと痛むんです。
お腹は空くし、昼夜問わず鳴り響く空襲警報で眠ることもできない。おまけに冬の寒さが厳しい時は、「寒いし眠いしお腹が空いた」と、しょっちゅう口にしていました。
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本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「『新しい戦前』なんて嫌ねッ」)。全文では、下記のテーマについて黒柳さんが語っています。https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h6835
●スルメ欲しさの戦争責任
●父が弾かなかった軍歌
●テレビの可能性を知った日
●三波春夫さんの戦争体験
●平和活動はテレビ以外にも
●あっという間に戦争は始まる