写真=iStock.com/font83 広島市の原爆ドーム(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/font83

三淵嘉子は次席裁判官として8年に及んだ裁判を全て担当

審理は8年に及んでいる。保管されている記録からは弁論準備だけで27回、4年に及んでいる。1960年(昭和35年)からは大阪地裁の訴えも、東京地裁に併合された。質量ともに難しく、重く大きな事件だった。

この原爆裁判に関して、嘉子が語ったものは何も残されていない。彼女は、自身のしてきたこと、試みや制度、自分が外に対して語るべきことなどを折りに触れて語ってきた。饒舌(じょうぜつ)ではないが、寡黙に過ごすことはむしろあまりなかった。

その彼女が、日本にとっても世界にとっても「原爆裁判」という極めて深刻な訴訟について、沈黙を貫いたのは、自分が見解を述べることで、わずかでも影響を残す可能性を恐れたのかもしれない。また裁判官が合議の秘密を語ることは固く禁じられていた、ということもあったろう。

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長男の芳武さんはこれについて、「当時の報道で母が原爆裁判を担当したことは知っていますが、内容について聞いたことはなかった」という。

原告のひとりは広島で5人の子を亡くし、自分には傷害が残った

弁護士事務所に保管された古い紙の綴りや手書きの訴状には、原爆投下による惨状や原告の受けた被害について、生々しく描写されている。

「原子爆弾投下後の惨状は数字などのよく尽すところではない。人は垂れたる皮膚を襤褸(らんる)として、屍(しかばね)の間を彷徨、号泣し、焦熱(しょうねつ)地獄の形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した惨鼻(さんび)なる様相を呈したのであった」

「原告は本件広島被爆当時47歳であって、広島市中広町に家族とともに居住し、小工業を自営していた健康な男子であったが、当日の被爆のため長女(当時16歳)三男(当時12歳)次女(当時10歳)三女(当時7歳)四女(当時4歳)は爆死し、妻(当時40歳)および四男(当時2歳)は爆風・熱線及び放射線による特殊加害影響力によって障害を受け、原告は現在右手上膊(じょうはく)部にケロイドを残し、技能障害あり、また右腹部から左背部にわたってもケロイドあり、毎年春暖の節には化膿しまた腎臓及び肝臓障害があって、現在まったく職業につくことはできない」