極めて難しいのは、この裁判が持つ政治的な影響力の大きさである。もし判決が原爆投下を国際法違反と結論づけ、国に賠償を命じれば、広島と長崎の他の被爆者たちは、次々に同じような裁判を起こすだろう。被爆者援護の法律の制定を求める声も高まる可能性がある。改めて原爆を投下したアメリカの責任を問う声は高まり、国際問題ともなろう。

「広島、長崎両市に対する無差別爆撃で国際法違反」

様々な問題、難題を抱えながら3人は判決文を書き進めた。ただ嘉子が判決文のどの部分を書いたかは分からない。しかし、第1回口頭弁論から結審まで、一貫して審理を担当した嘉子の意見がかなり反映されたことは、間違いない。

古関は判決後の囲み取材で、「政治的にどんな効果があるかは考えなかった。また裁判官は考えるべきではない」と語る。

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「二十数年間の判事生活を通じて、今度が一番苦労した」とも語る。

また、「あなたの裁判の師は誰か」と問われて、尊敬している裁判官として、三淵忠彦(三淵嘉子の夫の父で最高裁判所長官)を挙げた。

判決は1963年(昭和38年)12月7日午前に言い渡された。

注目される原爆投下の国際法上の評価については、

「広島市には約33万人の一般市民が、長崎市には約27万人の一般市民がその住居を構えていたことは明らかである。したがって、原子爆弾による襲撃が仮に軍事目標のみをその攻撃の目的としたとしても、原子爆弾の巨大な破壊力から盲目襲撃と同様の結果を生ずるものである以上、広島、長崎両市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当である」としたのである。

被爆者の損害賠償請求は認められなかったが……

判決は国内法上も国際法上も被爆者の損害賠償請求権は否定した。

だが最後に、異例の言葉が加えられた。

「人類の歴史始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力を持つ原子爆弾の投下によって損害を被った国民に対して、心から同情の念を抱かない者はないであろう。戦争をまったく廃止するか少なくとも最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望であり、そのためにわれわれ人類は日夜努力を重ねているのである」