原爆投下からまだ10年余りの、その言葉に生身のような痛みが残っている頃のことである。裁く立場の嘉子の心象風景は知る由(よし)もないが、戦争による心の傷は嘉子にも癒されぬまま残っている。日々の生活の細々とした苦労は思い出したくなくとも、忘れ去ることはできない。嘉子の夫と弟を奪ったのも戦争であった。肉親を原爆で理不尽に奪われた原告の気持ちは、最もよく嘉子が理解したところだろう。

嘉子や裁判長の古関は万全の体制で原爆裁判を受け持った

第1回、第2回口頭弁論の裁判長は畔上(あぜがみ)英治が、第3回弁論から判決までは古関敏正が務める。左陪席は弁論準備手続を伴うので変遷が激しいが、第8回弁論から判決までは高桑昭が務めた。

裁判長の古関は、嘉子より3期上で判決時、50歳であった。戦後司法省調査課や最高裁民事局の二課長などを務めた。風貌からは穏やかそうな印象だが、原爆投下が国際法違反かどうかが争点になると、躊躇(ちゅうちょ)なく3人の国際法学者を鑑定人に選任した。原告が申請した原水爆禁止日本協議会の理事長で法政大学の安井郁教授、そして被告の国側(日本政府)が申請した京都大学の田畑茂二郎教授(横田喜三郎教授と交代)と東京大学の高野雄一教授である。

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著名な国際法の研究者を3人並べたことで、古関は、自身が原告にも国にも、訴えを正面から受け止める覚悟ができていることを示した。3人の鑑定結果は1961年(昭和36年)から翌年にかけて裁判所に提出された。最大の焦点である原爆投下と国際法について、安井と田畑の意見はともに、「非人道的、無差別爆撃であり国際法に違反する」であった。高野も断定を避けつつ、「国際法違反の戦闘行為とみるべき筋が強い」と述べている。

原爆裁判で合議した若手裁判官「三淵さんは優しい人でした」

ちなみに、3人の裁判官の中で1人だけ、終盤に左陪席となった高桑昭さんが、原爆裁判について発言している。前年に裁判官になったばかり、26歳だった高桑さんは当時を振り返り、「(三淵さんは)おうようなやさしい人。私とは親子ほど年齢差がありましたが、古関さんとともに私を合議体の一員として遇してくれた」と語り、3人で合議をし、判決の方向性を決めたと明かしている(2024年4月20日付け「中国新聞」)。ただし判決文の内容を決める話し合いで誰が何をいったかについては、触れていない。