1941年12月8日、太平洋戦争のきっかけとなった「真珠湾攻撃」。山本五十六・連合艦隊司令長官の密命を帯びて、作戦実施計画立案の中心的役割を担ったのが、第一航空艦隊参謀だった源田実氏である。
源田氏は戦後『真珠湾作戦回顧録』を著し、世界戦争史でもまれに見る大奇襲作戦の全貌を後世に遺した。本書から一部抜粋して、真珠湾攻撃の政治的、戦略的評価を紹介した記事を配信する。(全2回の2回目/前編を読む)
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日本側の機械暗号が既に解読されていた
一般的に真珠湾攻撃は、戦術的には大成功であったが、政治的、戦略的にはむしろ大きな失敗であったという評価がなされている。結果から直線的な、単次元的な批判を行なうとすれば、そういうこともいえるであろう。まず政治的な評価であるが、最後通牒が攻撃後に手渡されたことは、何としても大きな失敗であった。しかもこれが、わが方の暗号翻訳に手間取ったためとあっては、何をか言わんやというところである。ともかくも、あの切迫した時局を迎え、いかなる暗号も一分一秒を争って、翻訳を完了するだけの態勢を整えておかなければならない。そうでなくても、アメリカ側で意地悪く取り計らうならば、開戦後に最後通牒を受け取るような手はずは十分にできたはずである。日本側の機械暗号が既に解読されていて、こちらはそれを知らなかったのであるから、これらはまことにうかつ千万であったといわなければならない。
暗号解読のみならず、牒報組織やその技術において、日本はアメリカよりはるかに遅れていた。ワシントン会議においても、わが方は煮え湯を飲まされたし、山本連合艦隊司令長官が、18年4月18日、ソロモン群島上空で敵戦闘機の待伏せをくって戦死したのも、暗号をいち早く解読されたからである。この時、筆者は軍令部第一課に勤務していたが、敵がP‒38戦闘機24機も使用し、しかもそれが、山本長官搭乗機の予定航路上に占位していたことから、暗号が破れているのではないかという疑問をもち海軍の関係当局にただしたのであるが、
「絶対に破れていない」
という返事であった。
ともかく、暗号が既に破られているのを気付かないでいるくらい危険なことはない。
日本の最後通牒の手交が遅れたことは、アメリカの国論をルーズベルトの戦争指導方針に合致させるために、大いに役立ったことは事実であろう。しかし、最後通牒の手交が遅れなかったならば、アメリカの国論が統一されなかったかというと、決してそうはいくまい。若干の時間的ずれはあったかもしれないが、いずれは統一されて、膨大な国力を総動員するに至ったであろうことは、少しも疑う余地はない。
軍と国民の戦意を喪失せしむるという企図
山本長官の企図は、当初の痛撃によってアメリカ軍隊のみならず、その国民の戦意を喪失せしむるにあったことは、山本長官から嶋田海軍大臣あての手紙にもそれとうかがわれることが記載してある。しかしこの点に関する限り、山本元帥ほどの人も、アメリカの底力を下算していたのではないかと思われる。4年間の戦争を通じて、アメリカが発揮した力には驚くべきものがあった。アメリカの戦力を最も高く評価した山本元帥にして然りである。そのほかの人々の評価は推して知るべしである。
要するに政治的には、真珠湾攻撃の効果は、戦局の大勢を支配するほどのものではなかったということができるであろう。
日本海軍軍令部の作戦当事者、第一航空艦隊司令長官その他幕僚の大部は、ハワイ作戦に反対であったことは既述したとおりである。その他、この作戦企図に 双手を挙げて賛意を表わした人は、幕僚級には数人いたと思うが、将官級では山口多聞少将くらいのものではなかったであろうか。