私は引っ込み思案な性格で、他人と話したり一緒に生活できる子ではありませんでした。広いお堂にみんなで布団を敷いて雑魚寝するのが、辛くてたまりません。歩けば1時間ほどだし、家へ帰りたい。でも逃げ出して連れ戻された級友を見ていましたから、方法を考えました。先生のところへ行って「体温計を貸してください」と頼み、はあ~って息をかけたり擦ったりして温めて、熱が出たという理由をようやく拵、家へ帰してもらったのです。
疎開先で子ども心にわかった母の苦労
両親は「光子は学童疎開には向かない」と考えて、家族で縁故疎開することになりました。仕事がある父だけ横浜に残り、祖母、母、私、弟、二人の妹とで、群馬の高崎へ。さらに富岡へ移りました。
疎開先では、母が箪笥から着物を一枚ずつ取り出しては出かけていく後ろ姿を見ていました。帰って来ると、わずかなお米や野菜に換わっています。母の苦労が子ども心にもわかって、とても気の毒でした。
母が出かけると、私は祖母を手伝って、家族みんなの食事を作ります。薪でお湯を沸かしてお味噌汁にして、粉から作ったすいとんを入れられる日はまだいいほうです。5歳だった下の妹は、どなたかにご馳走になった牡丹杏(スモモの一種)を食べたら当たったようで、患った末に死んでしまいました。食べ物がないって、そういうことです。
玉音放送を聞いたとき、まず思ったのは「ああ、これでお菓子を食べられるかな」。甘い物などすぐ手に入るはずもないのに、頭に浮かんだのは食べることでした。
マネージャーだった母がやらせたがった“特攻の母”役
いまから数年前のお盆に、祖父母と両親のお墓参りに行った帰り道。横浜市内を車で通っていて、何か感じるものがありました。「学童疎開していたお寺、この辺りじゃなかったかしら」と言うと、一緒に行った人がスマホで検索してくれて、すぐに三会寺が見つかりました。
さらに、戦争中の歴史を記録したサイトに「斎藤分国民学校から、8月13日に165名の児童が疎開してきた」と書いてありました。こんなことがあっていいの? その日は8月13日だったのです。
車を止めて境内に入って、70数年ぶりに、おにぎりを食べたお墓のところへ行ったら、涙が出そうになりました。お墓参りのあとですし、母がここへ呼んだのでしょうね。