90歳を迎えても主演映画『九十歳。何がめでたい』が公開されるなど、女優として活躍する草笛光子さん。1933年生まれの草笛さんは、その子供時代を、戦争の真っ只中で過ごす。いまや数少なくなった戦争を知る者として、最新刊『きれいに生きましょうね 90歳のお茶飲み話』で、戦争への思いを、歯に衣着せず語っている。(全3回の2回目/#1#3を読む)
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戦時中、祖母が渡してくれた忘れられない“塩むすび”

 ドラマや映画の撮影現場へ行くと、スタッフや役者の人数分のお弁当が積んであります。「おはよう。今日は何?」と訊いて、「これは鶏で、これが魚です。こっちはのり弁」「ああ、のり弁がいいわね」と、先にもらっておきます。

 けれども私には量が多いし、「午後から芝居が大変なところだわ」と考えると、全部は食べ切れません。「もったいない、もったいない」と思いながら残してしまいます。

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 作ってくれた人に申し訳ないし、世界には飢えている子どもがたくさんいることが頭に浮かんで、ますます申し訳ない気持ちになります。戦争中に育った子ですから、食べ物を無駄にすることに罪の意識が強いのです。

 昭和19年8月、私が住んでいた横浜でも空襲がひどくなって、学童疎開をしました。といっても行き先は、同じ横浜市内の小机です。我が家のあった斎藤分町から三会寺というお寺まで、国民学校の同級生と歩いて行きました。

 祖母が何度か、会長をしていた婦人会の用事があるような顔をして、会いに来てくれました。「光子ちゃん」とこっそり呼ばれてお堂の裏にある墓地へ行くと、「早く食べなさい」と言っておむすびをくれます。

 お寺で出された食事はまったく覚えていないのに、あの味は忘れません。満足にお米のない時代で、お腹が空いていますから、お墓の裏に隠れて夢中で食べました。のりも巻いていない塩むすびだったと思いますけれど、美味しくてね。「食べた? 大丈夫? じゃあ行きなさい」と背中を押され、素知らぬ顔してみんなのところへ戻っていました。