90歳を迎えても主演映画『九十歳。何がめでたい』が公開されるなど、女優として活躍する草笛光子さん。1933年生まれの草笛さんは、その子供時代を、戦争の真っ只中で過ごす。いまや数少なくなった戦争を知る者として、最新刊『きれいに生きましょうね 90歳のお茶飲み話』で、戦争への思いを、歯に衣着せず語っている。(全3回の3回目/#1#2を読む)
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©文藝春秋

三菱重工に勤めていた父は仕事を失った

 終戦の玉音放送は、家族でお世話になっていた疎開先のお家の庭で聞きました。群馬県の富岡です。ラジオの音が悪いし、私はまだ小学校六年生でしたから、正確に聞き取れません。ただ「天皇陛下のお声って、高いんだな」とだけ感じました。

 戦後、横浜へいつ戻って来たのか、はっきり覚えていません。辺りは焼け野原で、我が家も焼けていました。山の上にあった母の実家だけが無事で、広い家でしたから、そこへ住むことになったのです。

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 三菱重工の軍需工場に勤めていた父は、仕事を失いました。いろいろと商売を始めては、失敗続き。そこで母が、桜木町に小さな洋裁店を開きました。長女の私は両親の苦労を見ていましたから、かぎ裂きを縫ったりアイロンをかけたりと、小さい仕事はできるだけ手伝いました。

 あの夏、8月30日に厚木飛行場に着いたマッカーサーは、その足で横浜へ来て、ホテルニューグランドに泊まりました。その部屋は「マッカーサーズスイート」と呼ばれて、いまも使われています。ですから進駐軍は最初の拠点に横浜を選び、たくさんの兵隊が来ていました。

マッカーサーと昭和天皇 ©文藝春秋

 ニューグランドの向かいにある山下公園も接収されて、将校用の住宅が建てられました。フェンスで仕切られた向こうの広い芝生で、アメリカ人の女の子たちが遊んでいました。あんなに綺麗な家に住んで、私たちは着たこともない可愛いピンクの服を着て、キャッキャッと笑いながら飛び跳ねているのです。

 フェンスのこっち側から眺めている同じくらいの年の私たちは、汚いもんぺを穿いて、破れた靴を履いて、お腹を空かせて……。「ああ、負けたっていうのは、こういうことか」。子ども心に抱いた初めての実感を、いまも忘れません。