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山手幹線を北へと歩くと町の雰囲気に何やら変化が…

 そんな京阪の住宅地の中を歩き、駅の東側で再び山手幹線に出た。ここで駅に戻っても良いところだが、それだけでは少しつまらない。もう少し町を歩こうと、山手幹線を渡ってさらに北へと歩いていった。

 すると、なんだか町の雰囲気が変わってきた。京阪の町の歴史はせいぜい30年ほど。いまも分譲中の区画が残っている。だから、並んでいる住宅は比較的新しい。ところが、山手幹線を渡った先の住宅地は、およそ30年ものとは思えない、もっと長い歴史を刻んできたのであろう町並みなのだ。

 この一帯は、松井山手駅周辺ではいちばん古い住宅地で、「松井ヶ丘」というエリア。開発がはじまったのは、なんと1960年代の後半だ。

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 もともと松井山手駅付近は、取り立てて何があるわけでもない丘陵地だった。その丘陵地に線路が通ったのはまだ明治時代の1898年。当時は私鉄の関西鉄道による路線だった。

 ただし、関西鉄道も沿線開発などを目論んでいたわけではなく、最大の狙いは大阪と奈良盆地の連絡にあった。だから、路線開業時点では松井山手駅は姿形も存在しなかった。周囲に目立った集落があるわけでもないから、駅がないのもとうぜんだった。

郊外にニュータウンが続々できても「松井山手」はまだ開業せず…

 そうした状態のまま、長らく時が過ぎ、ようやく開発に手がつけられたのが1960年代になってからだった、というわけだ。ちなみに、同じ関西圏の千里ニュータウンでは1962年から入居がはじまっている。戦後の経済成長とともに住宅不足が顕在化し、郊外にニュータウンが次々に生まれた時期だ。1960年代後半から開発がはじまり、1970年代前半に入居を開始した松井ヶ丘も、そうした時代の流れの中で、誕生した町なのだ。

 

 ただし、松井山手駅はこのときも開業していない。そもそも、いまでこそ関西の通勤通学路線としての地位を確かなものにしている学研都市線も、その頃はまだ長尾駅以東は電化もされておらず、どちらかというとローカル線の趣が強かった。路線名も片町線といい(いまも正式名称は片町線だ)、都心側のターミナルも同じ名の片町駅。どことなく、地味なイメージが先行する郊外路線だった。

 

 とはいえ、いつまでもそんな状態を許さないのも時代の流れ。国鉄からJRに引き継がれて1年後の1988年に学研都市線の愛称が与えられ、1989年には非電化のままだった長尾~木津間が電化された。そして、このときに松井山手駅が開業したのだ。