――当時、妊孕性温存の選択肢がなかったことについて思うところはありますか。

友寄 絶対に将来子どもが欲しいと思う人もいるでしょうから、選択肢があることはいいことだと思うし、改善されたことは素直に良かったと思います。

 ただ、当時、目の前に生きるか死ぬかの決断が迫ってる中、妊孕性のことを提示されていたとしても、自分はそこまで頭は回らなかったかもしれません。母親は、抗がん剤治療のときに頭をよぎったらしいんですけど、とにかく私が生きていればそれでいい、という気持ちだったみたいで、言い出さなかったそうです。

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「明日も無事に生きてられるかな」死と隣り合わせだった入院生活

――やはり、闘病中は死と隣り合わせにあるような気持ちがあった?

友寄 入院中は常にありましたね。将来を考えるとかじゃなく、明日も無事に生きてられるかな、という感じで。

 闘病中、毎日、夢を見てたんですけど、夢の中でも病気なんです。寝てても起きてても苦しくて、常に病気がまとわりついていました。

――気晴らしにしていたことはありますか。

友寄 まだSNSもミクシィくらいだったし、携帯やテレビは画面酔いしちゃうことが多かったから、やっぱり本だなとなったんですけど、でも、無菌室だと本も消毒が必要なんですよ。

――それはかなり大変ですよね。

友寄 アルコールで1ページずつ消毒しなくちゃいけないので、必死になってアルコールシートで拭いて持ち込んでいました。

死と隣り合わせの入院生活を送っていた(写真=本人提供)

退院後、半年ほど引きこもりになってしまった理由

――退院とほぼ同時に高校を卒業されたということですが、その後、どんな風に生活をスタートさせたのでしょうか。

友寄 自分で決めた卒業でしたが、いざ退院して卒業もしたら、浦島太郎状態になっていて。10代の1年半を病院で過ごした差は想像以上に大きくて、いきなり社会に放り出されても、何をしていいのか本当にわからなかったんです。周りの友だちは大学に行ったり就職したりとそれぞれの道に進んでいたので、誰にも相談できなくなっていました。

 とりあえずバイトの面接に行ったものの、10件以上受けて、どこのお店も「何かあった時に責任を持てない」と言われてしまって、雇ってもらえなくて。

――病気のことを話すと雇ってもらえなかったんですね。

友寄 それでも、唯一受かったイタリアンレストランがあったんですけど、コーヒーカップひとつ持てませんでした。

 まさかそこまで体力がなくなっているとは自分でも思ってなくて、私って何もできないんだなと、本当に独りぼっちになった気がして、半年ぐらいは引きこもっていました。