道長と紫式部がかつて恋人同士だったからではない。紫式部の死んだ夫、藤原宣孝は道長の部下で、宇佐から帰ると道長に馬を献上するなど関係は濃厚だった。また、紫式部の父の藤原為時が、越前守として赴任できたのも道長の差配だった。そのうえ紫式部は、道長の正妻である倫子の又従兄弟(またいとこ)だった。紫式部は自分の才能が、最高権力者たる道長に伝わりやすい位置にいたのである。
文学には文学で対抗する
紫式部が『源氏物語』を書きはじめた動機はわからない。最初は、夫を失った心の空虚を満たすためだったのかもしれない。しかし、大作を仕上げるに当たっては、まちがいなく道長が関与している。
倉本一宏氏は、当時の紙が非常に高価だったことに着目し、次のように記す。「紫式部はいずれかから大量の料紙を提供され、そこに『源氏物語』を書き記すことを依頼されたと考える方が自然であろう。そして依頼主として可能性がもっとも高いのは、道長を措いては他にあるまい」
その道長の目的については、「この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげるつもりであったことは、言うまでもなかろう」とする(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。
宮廷の外で物語を書きはじめたと思われる紫式部は、おそらく寛弘2年(1005)の末から、彰子の宮廷に出仕した。『源氏物語』もその作者も、道長によって囲い込まれたことになる。倉本氏はこう書く。「紫式部の出仕が、『源氏物語』のはじめの数巻による文才を認められてのことであることは間違いない」(前掲書)。
道長がこれほどまで大騒ぎをするなら…
道長の策は功を奏したようだ。『紫式部日記』には、次のような記述がある。
「内裏の上の、源氏の物語人に読ませ給ひつつ聞しめしけるに、『この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし』とのたまはせけるを(一条天皇が『源氏物語』を人にお読ませになられ、お聞きになられていたとき、『この作者は日本紀を読んでいるみたいで、じつに学識があるようだ』とおっしゃるのを聞いて)」