だから、ゴーマンは今回の詩に、perish(絶滅する)やbattles(戦い)という強い言葉を使っているのだ。これらは『わたしたちの登る丘』ではあえて使われなかった語である。では、民主主義を守るためにどうすればいいのか。そのために大切なのは人びとの「エンパシー」であるとゴーマンは言う。
「エンパシーは私たちを解放し、憎しみや虚栄を超えた存在にする。それこそが、力強く純粋なアメリカの未来図だ。分断されたままでは力尽きるだろう。しかし団結すれば、私たちの民主主義を人間らしいものにすべく力を尽くせる。人類が愛おしむ民主主義に変えていける」(「この聖なる場」)
エンパシーと「共感」の違い
エンパシーはシンパシーとどう違うのか。ここは重要な点だ。シンパシーが「共感」すること、思いや感情を相手と一にすることだとしたら、「エンパシー」は「洞察的理解力」とでも訳せるだろうか。必ずしも共感はしなくても想像や理知の力で相手の立場を思いやり理解することである。
シンパシーはいっとき強い団結を呼ぶが、そうして共感ベースで築かれた同質集団は同調圧力を引き寄せやすく、いったん意見が割れると分断を生む傾向にある。エンパシーは互いの異質さを認めながら相手を思うことだから、アメリカのような多人種多文化国家の形成には欠かせないものだろう。いまアメリカが(日本もかもしれない)真っ二つに分裂しているのは、もっぱら共感ベースで人と人がつながっているからではないか。
「完璧な国」でなくていい
ゴーマンは、1787年の合衆国憲法前文作成のときから唱えられてきた「A More Perfect Union(より完璧な連邦)」という理念に、『わたしたちの登る丘』でノーと言った人である。オバマ大統領(当時)や数々の指導者がリレーしてきたこの「アメリカはより完璧な国を目指す」という考えに、22歳の詩人が「これからはそうではない」と言ったのだ。
パーフェクトな国とは、ある意味では凸凹がなく統制された世界だ。多様性をそいでしまう部分がある。だから、ゴーマンは『わたしたちの登る丘』のなかで、「そう、わたしたちは完成からも、かといって生のままからもほど遠い。/けど、だからといって、完璧な国を求めて励むのではない。/目指すのは、志をかかげて結束をかため、//人間のどんな文化、どんな肌色、どんな気質、/どんな境遇にも、/真摯にとりくむ国を築いていくこと。」だと語りかけた。
「わたしたち」という語を使うとき、ゴーマンはその語が必然的に抱えてきたこの国の壮絶な亀裂や軋轢や矛盾を重く引き受けながら書いているのだ。