1996年にグラビアデビューすると人気を博し、その後バラエティー番組やドラマでも活躍した小島可奈子さん(48)。結婚後は地元である福岡に住まいを移し、美容ドリンクのメーカーを経営している。グラビア時代の葛藤から、ADHD(注意欠如・多動症)の娘への思い、16年ぶりとなる写真集「凪-NAGI-」で一糸まとわぬ姿を披露した理由まで明かしてくれた。(全3回の1回目/続きを読む)
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苦労人の母を幸せにしたくてグラビアの世界へ
ーー小島さんが福岡に戻られてどのくらいになりますか。
小島可奈子さん(以下、小島) 戻ってもう11年ぐらいです。食べ物が安いですし、住みやすいですよね。ただ、福岡はみんな知り合いみたいなところがあって、私はコミュニティが広い方が好きなので、仕事で違う場所に行くのも楽しいです。
ーーもともと福岡出身ですが、どのように芸能界に入ったんですか。
小島 学生時代、毎日学校に通うことが苦痛だったんですよ。ルーティーンで同じことをすることが苦手でOLさんはできないタイプだなと思ってました。
高校を卒業してからは、宝くじ「幸運の女神」をやっていたり、福岡ドームの中を案内するドームツアーのコンパニオンとかをいろいろしていました。ある時、天神の地下街を歩いていると、たまたま帰省していた福岡出身のスカウトマンに「東京でグラビアしませんか?」と声をかけられました。19歳の時です。
ーー福岡で東京の事務所にスカウトされるとなると、怪しくはありませんでしたか。
小島 正直、怪しかったです(笑)。周りからも「何それ?」って言われて。当時は雛形あきこさん、山田まりやさんはいましたが、一般的にはグラビアアイドルって何? という時代だったので。特に父親には猛反対されました。
父は弱さからか、お金が入るとギャンブルで全部使っちゃうような人でした。児童養護施設で育った母はとても気丈で、眉間にしわを寄せながらも弱音ひとつ吐かず何とかしてしまう人で苦労が多く、私はそんな母を幸せにしたいとばかり考えていました。
どうしたら母を幸せにできるかは分からないけれど、とりあえずお金を稼ごう。でも、普通の仕事ではお金にならないと若いながらに考えていて。グラビアのお誘いがあった時には「芸能の仕事に行ったら、ちゃんと自分で稼げるようになるかもしれない」という気持ちはありました。なのでその時までに貯めたお金を握り締めて、段ボール2個で上京しました。