「トシ坊だろ?」
田中さんが、温泉施設でその女性から声をかけられたのは、その年の秋頃だった。
田中さんを利夫という名前にちなんで「トシ坊」と呼ぶのは、貸席屋に出入りしていた女性たちくらいだった。田中さんはその女性のことは記憶になかったが、女性は貸席屋を利用したことがあると明かし、親切にしてくれた田中さんの母親のことを懐かしんでいたという。子どもの頃しか知らないはずなのに、どうして田中さんとわかったのか。そう聞くと、女性は「自分の亡くなった兄と鼻の形が似ていて、印象に残っていたから」と答えた。
北関東の貧しい家に生まれ、蔑まれる境遇から抜け出そうとした
その後、田中さんは女性と温泉施設で会った際、計3回にわたり女性の生い立ちや朝霞での思い出を聞いた。田中さんが聞かせてほしいと頼んだわけではなく、女性自らが語り始めたという。田中さんは女性から聞き取った内容をノートに書き残しており、それを見ながら自身の体験なども交え、取材に応じてくれた。
2022年時点で、女性は86歳だと言った。1934年か35年生まれとみられ、朝霞では「アカネ」(仮名)という名で商売をしていたという。
アカネさんは北関東の山間部で生まれた。母はアカネさんが幼い頃に亡くなっており、父、兄2人と暮らしていた。生活は貧しく、アカネさんは兄のお下がりの服ばかり着ていたため、「男」と呼ばれた。他の女の子のように、髪をリボンで飾ったり、スカートをはいたりすることはかなわなかった。
学校では貧しいがためにつらい思いをした。アカネさんは「あたい、結構かわいかった」と語るが、小学校の学芸会ではお金持ちの子にいい役が回された。友人が先生にアカネさんを主要な役にするよう推薦しても、聞き入れられなかった。
中学を出て東京の工場で働くが、行き場をなくして上野へ
このままこの土地に残っても、地元で名士といわれる家のお手伝いさんか、子守になるくらいしか道がない。そうすれば、またひどい扱いを受け、みじめな思いをするかもしれない。それは嫌だと考え、アカネさんは中学を出てすぐに上京し、東京の工場で働き始めた。しかし、事情があって工場をやめざるを得なくなり、上野へ行った。