農家を改造したスタジオで合宿生活を送っていると…
玉置が音楽活動を始めたのは、中学2年のとき、同級生の武沢豊(別名・武沢侑昂)らと「インベーダー」というバンドを結成したことにさかのぼる。その後、バンド名を「安全地帯」と改め、オリジナル曲や洋楽のカバーでコンテストにも出場するようになり、地元の旭川では有名だったらしい。1977年にはコンテストでよく競い合った「六土開正(ろくどはるよし)バンド」と合体する。のちにデビューする安全地帯のメンバー、玉置(ボーカル・ギター)・武沢(ギター)・六土(ベース・キーボード)・矢萩渉(ギター)・田中裕二(ドラム)はこのとき初めて集結した。
玉置たちは本格的にプロを目指すべく、地元の農家を改造して練習スタジオをつくると、3年ほど合宿生活を送った。そのころ、安全地帯のデモテープを入手したキティレコードが関心を示し、のちに彼らのレコードを手がけるディレクターの金子章平、プロデューサーの星勝があいついで旭川まで訪ねてくる。
井上陽水からの言葉に奮起する
それからまもなくして安全地帯は東京に呼び寄せられ、キティレコードの創設メンバーの田中裕(のち社長)から「勝負できる曲が必要だから、1年間ひたすらデモテープをつくってくれ」と命じられる。その間の稼ぎ口として、彼らは井上陽水のバックバンドを務めることになり、まず1981年秋からのツアーに参加する。
このツアー後、玉置はレコード会社で偶然陽水と会い、食事に誘われると、「後楽園球場の切符は手に入れるんだろう?」と訊かれた。野球の話かと思えばそうではなく、「安全地帯が後楽園球場でコンサートをやれるぐらいのバンドになる覚悟はあるのか」という話であった。先輩である陽水なりの励ましであったのだろう。これを受けて玉置は《“今のままではダメなんだな”とわかったし、“よし、やってやるぞ!”という気持ちも湧きました》という(『別冊カドカワ 総力特集 井上陽水』角川マーケティング、2009年)。