安全地帯はバックバンドを務めながら、やがて単独でライブハウスにも出始め、業界内でひそかに噂されるようになる。ただ、1982年2月、満を持してシングル「萠黄色のスナップ」でデビューしたものの、続く「オン・マイ・ウェイ」も、翌年1月にリリースしたアルバム『安全地帯 I Remember to Remember』も、ほとんど話題にはならなかった。そのためプロデューサーの星からは陽水に曲をつくってもらおうと切り出されるも、玉置はあくまでも自分で曲をつくることに固執し、この提案を拒んだ。そして1週間だけ時間をもらうと、絶対に売れるものをと必死になって曲をつくる。本来やりたかったロックっぽいサウンドではダメだと、思い切って歌謡曲の要素を採り入れ、生まれたのが「ワインレッドの心」のあのメロディだった。
「ワインレッドの心」の大ヒットとバンドとしての挫折
当初は歌詞はなく、玉置がデタラメな英語で歌っていたが、それまでの彼らの曲とは一味違い、キティレコードの田中裕いわく《音の角が取れて心の襞にそっと触れるような、繊細な哀愁が漂っていた》(『週刊現代』2020年8月1日号)。
詞はいろんな人に書いてもらったが、結局、陽水に依頼した。最初の詞では、のちに「忘れそうな想い出を」となる箇所が「豚のような女に」となっていたりしたが、玉置はスタッフを介して書き直してもらい、その回数は3度におよんだという。陽水のほうもこの歌詞を書くためにノートを1冊使い切るほど熟考を重ねていたらしい(志田歩『玉置浩二★幸せになるために生まれてきたんだから』イースト・プレス、2010年)。最終的に、このとき決まっていたサントリーのCMのワインを活かしてあの歌詞になった(なお、前出の田中裕は、陽水による作詞は、サントリーとのタイアップを仲介したCM音楽プロデューサーの大森昭男からの要望だったと後年証言している)。
「ワインレッドの心」は1983年11月にリリースされ、翌年、例のワインのCMが流れ、さらに当時の人気番組『夜のヒットスタジオ』で歌ったことで火がつき、最終的に70万枚超を売り上げる大ヒットとなる。しかし、それは必ずしもよいことばかりではなかった。これについて彼は《「ワインレッドの心」が売れて、ガラッと生活が変わったんですよ。戸惑いと、躍らされんぞという頑なさと、どんどん甘い汁にハマッていく自分と……》というふうに後年顧みている(『月刊カドカワ』前掲号)。