城の内部構造、とくに極秘部分にたずさわった大工や職人が殺されたという逸話は各地に残っている。それに源兵衛が他の大工と生き埋めにされたという伝承もあり、その場所が埋門だといわれている。
ちなみに姫路城清水門の外、中堀と船場川を分ける外郭の土塁上に2メートルあまりの石碑が立つ。碑の表に記されてあった文字は、摩滅して読みとることができないが、伝承では源兵衛の墓石だと伝えられる。
だが、果たして天守の設計に失敗して自殺した職人の墓を建てるだろうか。墓石を建立してから源兵衛の魂はよく城を守護したというが、この石、そもそも墓石の形状をしていない。城下の旧家に残る文書によれば、元禄時代、船場川改修工事の竣工記念に清水門外に石碑を建てたもので、誰かが勝手に源兵衛の墓石だと語るようになったようだ。
姫路城は池田家→本多家に
さて、輝政が50歳で亡くなると、輝政の嫡男(長男)・利隆が家督を相続した。ところがわずか3年後、利隆は若くして亡くなってしまう。嫡男の光政はわずか8歳、幼児に西国の要である播磨は任せられないと判断した幕府は、池田家を鳥取城へ移封してしまった。
領地は播磨から因幡・伯耆2国になったが、石高はあわせて三十二万石、播磨時代から十万石の減封となった。
こうして池田氏は、3代17年で姫路城を去り、代わって譜代の本多忠政が城主となった。忠政は徳川四天王・忠勝の嫡男として生まれ、父の隠居後、その領地を踏襲して桑名城主となった。大坂の役での戦功に加え、嫡男の忠刻が千姫と結婚したので、今回、姫路に栄転となったという。
周知のように千姫は豊臣秀頼の正室で、大坂落城のさい城から救い出された。
千姫を忠刻の妻にと願ったのは、忠政の妻で忠刻の生母・熊姫だった。熊姫も千姫同様、家康の孫(松平信康の娘)だが、婚家の本多家と将軍家の結びつきを深めたいと考え、祖父の家康に懇願したらしい。
忠勝が他界したあと、忠政は弟の忠朝と相続争いになり、結局、忠政が全てを継承したが、このおり、潔い忠朝の態度に感服した家康は「忠朝のほうが忠勝に似ている」とほめた。これに忠政・熊姫夫妻は、危機感を抱いたようだ。