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流産を繰り返した上、夫は早世

家康は熊姫の願いを聞き入れ、元和2年(1616)9月、夫・秀頼の喪もあけないうちに千姫は忠刻のもとに嫁いだ。本多家には十万石という莫大な千姫の化粧料(持参金)が入り、翌年、忠政は桑名十万石から姫路十五万石へ移封する。

いまも姫路城の西の丸に残る化粧櫓は、千姫の居間として、彼女が持参した化粧料で建てられたもの。このとき忠政は、西の丸を高石垣で囲む大改修をおこなっている。化粧櫓の居室は全て畳敷きである。当時としては贅沢であり、壁や襖も極彩色の花鳥が描かれ、絢爛豪華な雰囲気を醸し出していた。また忠政は、三の丸に新たな御殿を創建している。

忠刻と千姫の夫婦仲はよく、千姫は元和4年に勝姫を生み、翌年に再び懐妊し、男児(幸千代)を出産した。ところが元和7年、幸千代は3歳で夭折してしまう。豊臣秀頼の祟りとの噂が立ったので、千姫は元和9年に伊勢慶光院の周清上人に秀頼の供養を依頼。

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周清は、千姫が所持する秀頼の直筆(南無阿弥陀仏の名号)を観音像の胎内に納め、男山山麓の祠(現・男山千姫天満宮)に安置した。千姫は化粧櫓の西窓から毎日この祠を遥拝したという。

道行く男を屋敷に招き入れ性交したという噂

けれども、その後も千姫は流産を繰り返し、3年後には夫の忠刻が31歳で早世してしまった。本多家は忠刻の弟・政朝が嗣ぐことになり、千姫は姫路城を去って江戸へ戻った。

その後は吉田御殿に住み、道行く男を屋敷に招き入れ、性交のあと男を殺して井戸に投げ捨てたという伝承が生まれるが、もちろんそれは後世のつくり話。千姫は江戸城内の竹橋御殿に住んでおり、一般人が通行できるところではない。

史実の千姫は、剃髪して天樹院と称し、一人娘の勝姫を立派に育て上げ、寛文6年(1666)に70歳で死去した。

ちなみに姫路城主は本多氏のあと、松平氏、榊原氏とたびたび変わり、最後は酒井氏が明治までの120年以上、姫路城を支配し続けたのである。

河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数