太平洋戦争では腕の立つパイロットが欠かせないが、そうした人材は赤紙だけで確保できるわけではない。教育・訓練が不可欠だ。そこで、全国各地に多くの養成所が置かれ、パイロットの養成にいそしんだ。
さらに、戦局が悪化してきた1944年には陸軍の航空基地になって、首都防衛の飛行隊も配置されている。印西牧の原駅付近の開発の端緒といえば、この飛行場の造成だったのだ。240万㎡に滑走路3本という巨大な飛行場ができたのは、ここにそれだけ広大な土地が確保できたということの裏返しでもある。
「パイロット養成所の町」から激変していく戦後の“きっかけ”
戦争が終わると飛行場は消え、入れ替わるようにして入植者がやってくる。東京のすぐ近くというのに入植とはなかなかだが、それだけ台地の上というのは不毛の地という側面があったのだろう。
いまの印西牧の原駅付近の入植は、戦地や外地から引き上げてきた人たちが中心だったという。また、飛行場跡地の一部には少年院もできて、非行少年の更生に力を注いでいる。朝ドラ『虎に翼』の主人公・寅子も印旛少年院に非行少年を送り込んだのかもしれない。
この頃は、もちろん鉄道なんてものは影も形も存在しない。計画だってあるはずもない。それでも入植して開拓し、町を開こうとした先人たちの努力というのはすさまじいものがあったに違いない。
当時も一定の区画整理はされていたようで、いまのように東西に延びる線路と幹線道路、その両脇に住宅地という区画ではなく、北東から南西へと斜めに区画が整えられていたことが、地図から確認できる。
長らくそんな町だったところ、一変したきっかけが成田空港と千葉ニュータウン計画だ。
成田空港の建設が決まると、そのアクセス手段として成田新幹線の着工が決定する。東京駅の地下ホーム(いまは京葉線ホームに転用されている)から西船橋付近を通って下総台地に出て、あとはいまのスカイライナーとほとんど同じルートで空港へ。
いろいろと反対運動もあって実現はしなかったのだが、下総台地のど真ん中の土地は早々に確保されていた。用地取得は公共事業でいちばんのハードルだが、この一帯はそれが問題にならないくらいの場所だった、ということだ。