1ページ目から読む
3/6ページ目

町から醸し出される「馬っぽい気配」の正体

 そんな公園と住宅地がバランスの取れたニュータウンを歩いていると、横断歩道を渡ったところに馬蹄を模した逆Uの字の車止め。このまったくのニュータウンと馬蹄型、いったいどんな関係があるのだろうか。

 

 かつて、この下総台地の一帯は、「牧」と呼ばれる場所だった。牧というのは横浜DeNAベイスターズの四番バッターのことではなくて、幕府が馬を生産・育成するための放牧場のこと。

 千葉県北部の台地上は江戸時代から馬産や馬の育成が盛んな地域で、いくつもの牧が置かれていた。メインになるのは台地の西の端、小金牧と呼ばれる一帯だが、東側にも印西牧という牧があった。そうした歴史が「牧の原」の地名にもつながっている。

ADVERTISEMENT

 つまり、印西牧の原の町は、歴史的に見ると実に馬と縁が深いというわけだ。それはいまでも続いていて、印西牧の原駅から北にニュータウンを抜けてゆくと、小林牧場という競走馬の調教施設がある(大井競馬場の外厩施設)。また、少し印西牧の原とは離れるが、西の白井にはJRA競馬学校も。

 江戸時代の幕府の牧と、直接的につながりがあるかどうかはさておいて、馬と下総台地は切っても切れない関係にある。だから、町中に馬蹄を模した車止めがオブジェのごとく、何も言わずに佇んでいるのだろう。

災害に強く、でも水に恵まれなかったこの町の“転換点”

 ちなみに、台地の上という場所は、災害に強い。低地や埋立地のように液状化現象や洪水被害に晒されるリスクは低いし、地震にも比較的強いことが多い。印西牧の原一帯も例に漏れない。だから、都心からはやや離れているのにニュータウンが造成されればたくさん人が暮らすようになったのだ。

 

 ただし、一方では水に恵まれないというデメリットもある。いまのご時世は、さすがに水道が整備されているからさほど気になることもなかろう。けれど、江戸の昔は田畑を耕すための水に恵まれずに苦労したことも少なくない。たびたび開墾されて新田が開かれていったが、すべてがうまくいったわけではないようだ。

 その証拠というべきか、下総台地の明治時代から大正時代にかけての地図を見ると、目立った市街地も田畑もなく、大半が針葉樹か広葉樹のマーク。ざっくりした言い方をすると、雑木林が生い茂る、というヤツだ。

 そうした中で、まさしく戦時中の1942年には、印西牧の原駅付近に印旛飛行場という航空基地が設けられた。いわゆるパイロットの養成所。