つらくてどこかに逃げようと思った初期の出来事
日本のロック史をひもとけば、はっぴいえんどの松本隆やサザンオールスターズの桑田佳祐など、豊富な読書体験や独特の言語センスを持った人たちが日本語によるロックを開拓していった。しかし、稲葉には先人たちのような素養が初めからあったわけではない。子供の頃は、学校の国語は苦手だったし、小説も最後まで読めたためしがなかったという(前掲、『シアン』)。
それだけに最初は苦労した。1stアルバム『B'z』(1988年)のときはわりと自分の好きに書けたが、2枚目の『OFF THE LOCK』(1989年)ではディレクターをはじめスタッフたちからダメ出しを繰り返され、つらくてどこかに逃げようかと思ったほどだという。そこでしつこく問われたのは、歌詞のディテールだった。詞に出てくる人物についても「独身なの?」などと細かく訊かれたという。それもあとから考えれば、ディテールを書かずとも、最小限の言葉の組み合わせで一つの文と同じぐらいの内容を想像させる歌詞を書くための訓練だったとわかる。
このあと稲葉は、3rdシングル「LADY-GO-ROUND」(1990年)で「こひしかるべき」などと和歌に使われた古語を採り入れ、独自のスタイルにたどり着く。本人によれば、これはTUBEの前田亘輝がかつて四字熟語だけで曲をつくったことからヒントを得たという(佐伯明『B'zグローリークロニクル 1988-2013』エムオン・エンタテインメント、2013年)。そうした着想も、ディテールについてしつこく問いただされる経験がなければ得られなかったに違いない。
ロックサウンドに「小市民的な言葉」を乗せて
ハードロックに古風な言葉を乗せる試みは、同じく1990年の5thシングル「太陽のKomachi Angel」につながり、B'zのブレイクの端緒となった。同曲では稲葉が「Komachi」に続けて叫ぶ「エーンジェール」のフレーズが強烈に耳に残るが、その後もB'zのヒット曲のタイトルや詞には「ギリギリchop」(1999年)や「ultra soul」(2001年)など、言葉の組み合わせの妙というべきものが目立つ。
エッセイストの阿川佐和子は稲葉との対談(『週刊文春』2004年9月9日号)で、《稲葉さんの詞は素直。「さよならなんてすぐに言わないで、さよならしたら僕はどうなるだろう」なんてロックにはなかったでしょ(笑)。その辺が聴いてる人がグッとくるんじゃないかと》と評した。これを受けて稲葉は、《ロックの持つダイナミックなサウンドに、僕の小市民的な言葉が乗っちゃったから新鮮だったんじゃないですか》と返している。
阿川がここで引用したのはB'zの「HOME」(1998年)の歌詞だが、同曲も含めて稲葉の詞には、女性が去っていくシチュエーションが多く、逆に主人公が去っていくパターンはあまりない。その理由を前掲の作品集『シアン』のインタビューで訊かれた彼の答えは、《たぶん、自分が去っていく歌を歌うと嫌われるんじゃないかなと思ったんです(笑)》、《当時はファンの人に女性が多かったこともありますし、強い曲調に強い言葉で相手に『さよなら』を言ってしまうと、ファンの人に向けて歌うのはどうかという気がして(笑)》と、これまた素直すぎるものであった。