作詞も続けていくうち苦痛ではなくなった。いまや《ときによっては、作詞がガス抜きになることもあるし、歌うかどうかを別にして、何かを文字にしてみるだけでストレスがなくなることもあるし、歌詞を書く作業に助けられていますね》と語るほどだ(『anan』2024年7月24日号)。
横浜国立大学に在学中、教育実習に行ったものの…
稲葉は高校を卒業するとき、教師から「おまえは流れやすい性格だから気をつけろ」と忠告されたという。実際、教職を取ろうと横浜国立大学の教育学部に入ったにもかかわらず、結果的に音楽の道に進んだので、その忠告は《あながち間違ってなかったかもしれない(笑)》と本人も半ば認めている(『週刊文春』前掲号)。大学時代には教育実習でまず小学校に行き、子供たちと一緒にいるのは面白かったものの、職員室ではすごく嫌な雰囲気を感じたという。さらにその後行った中学校でオリエンテーションが終わると校長室へ呼ばれ、稲葉が髪を伸ばしていたのを「それ何とかならないですかね」と言われた。これに反発した彼は結局、教師になるのをやめてしまったのである。
大学卒業後は家庭教師などのバイトをしながら、いくつかのバンドを掛け持ちしていたほか、音楽制作会社のビーイングが運営するボーカルスクールに通い、ときどきレコーディングのためコーラスで呼ばれたりもしたという。しかし、歌うのは好きだったものの、将来に向けて明確なビジョンが描けずにいた。そこへ声をかけてくれたのが、すでにビーイングに所属していた松本孝弘だった。
ボーカリストを探していた松本が、稲葉を見て即決
松本はもともと、ギタリストとしてTM NETWORKをはじめ多くのアーティストのスタジオワークやツアーサポートなどの活動をしていたが、このころには、自らの音楽を表現できるバンドをつくろうと構想していた。そこで、バンドのフロントマンとなるボーカリストを探していたところ、稲葉がビーイングに預けていたデモテープ(ビリー・ジョエルの「オネスティ」などを歌ったという)を聴き、写真を見て即決したという。
こうして1988年4月に松本は稲葉と初めて会うと、数日後にはスタジオに二人で入ってデモテープをつくり始めた。それからまもなくしてレコード会社から声がかかり、9月には最初のシングル「だからその手を離して」と前出のアルバム『B'z』をリリースしてデビューを果たす。稲葉からすると、すぐにデビューが決まり、うれしいとか《そういう感情を持つ間もなく、流されてました(笑)》という(『週刊文春』前掲号)。