〈翌1947(昭和22)年4月、被告の男は原告の女に「京都帝大を首尾よく卒業。郷里に帰って親兄弟に結婚を相談したところ、反対されたので絶縁してきた。結婚するから家に置いてくれ」とだまし、同棲するようになった。女は男の挙動に不審を感じ、調べた結果、男の言うことは全てうそだと分かると、男は女を捨てて立ち去り、関係を絶ってしまった。女は「男に貞操を蹂躙された精神的苦痛は甚大」などとして慰謝料20万円、「会社設立資金」として男に貸した約3万6000円、生活費約4000円の計約24万円を支払うよう求めた。これに対して男は「情交関係があったことは認めるが、女をだまして結婚の申し込みをしたり、貞操を蹂躙した事実はなく、情交関係も女から求められた。借金も正当な融資」として請求棄却を求めた。〉
原告女性に対しても…「もう少し注意を払っていれば」「甚だ軽率だった」
24万円は現在の約200万円。いまもあるような話だが、近藤莞爾裁判長、和田(三淵)嘉子・右陪席判事、小林哲郎・左陪席判事が下したのは次のような判決だった。
〈被告は学歴、経歴などを詐称。甘言をもって原告に近づき、その誤信に乗じて貞操を奪い、同棲して情交を重ねていた。だが、自分の事業に熱中したうえ、原告に飽きてお互いに不和になると、原告の家を飛び出し、原告を捨てて顧みなかった。原告は少なからぬ精神的苦痛をこうむったことは明らか。被告は原告に慰謝料を賠償しなければならない。しかし、原告も、一面識もなかった被告に列車中で住所を教えて来訪を勧め、快く歓待。その後の交際でも被告の言動、容姿のみによって甘言をたやすく信用した。結婚の可能性を信じて情交関係を結んでおり、もう少し注意を払っていれば、被告の愛情は信じ難いことに気づいただろう。甚だ軽率だったと言わねばならない。慰謝料20万円は過大なうえ、貸した金もだまし取ったとはいえない。よって被告に5万円(現在の約42万円)の損害賠償の支払いを命じる。〉
いまの目で見てもほぼ妥当な判断だと思われる。近藤裁判長は嘉子と初対面のとき、「女性だからといって特別扱いしませんよ」と言ったといわれ、公正、廉直な性格で嘉子も尊敬していたという。
刃物を向けられる事件で抱えた、女性裁判官としての“苦悩”
ドラマでは、「寅子」が家庭裁判所で担当していた離婚調停中の女性・瞳(演:美山加恋)から、「困っている女性の味方をしてくれない」「恵まれた場所から偉そうに」と刃物を向けられるシーンがあった。これも実際にあった「事件」が基になっている。ドラマの中で「ライアン」と呼ばれた「久藤頼安」(演:沢村一樹)のモデル・内藤頼博(子爵、東京家庭裁判所所長などを歴任)は嘉子の死後まとめられた『追想のひと三淵嘉子』(1985年)でこう振り返っている。
「三淵さんがまだ和田姓で、東京地方裁判所の民事事件を担当しておられたとき、ある夜のこと、突然私の家を訪ねて来られた。きょう、訴訟の当事者のおばあさんに、洗面所でいきなり刃物を向けられ、刺されそうになったというのである。危うく難を逃れたが、そのことで私を訪ねられたのであった。
その出来事は、私も役所で耳にしていた。裁判所の中で、関係者が興奮のあまり狂気を発する例は、時に聞かないでもない。私は、和田さんもとんだ災難に遭ったものだ、ぐらいの気持ちで、その話を聞いていた。しかし、その夜の和田さんは真剣であった。相手を責めるのではない。当事者をそういう気持ちにさせた自分自身が裁判官としての適格を欠くのではないかという、深刻な苦悩を訴えられたのである」
「これは、裁判官にとって最も深刻な問題であろう」。そう思った内藤は「その夜、法をつかさどる者が負う宿命について、裁判というものの悲劇性について、夜がふけるまで和田さんと語り合った」と書いている。三淵嘉子という人の人生への向き合い方が分かるエピソードだろう。