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 監督が星野から山田になっても、“席次表”は変わらなかった。

 つまり大学を出たばかりの青二才が何かをするための空席など、どこにもなかった。序列にさえ数えられないうちは隅っこで体操座りをして順番を待つしかない。私はそうした無力感に慣れきっていた。

 そして毎朝、ただただ眠かった。

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肩に食い込む鞄の重さ

 落合邸は世田谷の閑静な一角にあった。白い外壁の二階建ては造りこそ重厚だったが、世に広く知られた人物の邸宅としては華美な装飾もなく、意外なほどこぢんまりしていた。玄関へ通じる門扉の脇には路地に面して半地下のようになったガレージがあり、灰色のシャッターが降りていた。私はその前に黒い肩掛け鞄を下ろした。鞄はうめくような音をたてた。資料ではち切れそうになったファイルにスクラップブック、厚切りトーストのようなパソコンとありったけのノート……、いつ誰に何を指示されてもいいようにと、記者稼業に必要なあらゆるものを詰め込んだ鞄はいつも限界まで膨張して私の肩に食い込んでいた。自分の意志で入れたものも、逆に取り出したものもなかった。その重さは、まるで無力感に身を委ねることへの代償のようだった。

星野仙一氏と対談する落合博満氏 ©文藝春秋

 辺りは静かだった。静かすぎた。

 ふと、静けさの中に視線を感じた。通りの向こうから、ハッ、ハッ、ハッと荒い息が聞こえた。白い毛をフサフサとさせた大きな犬と、それを引っ張る─引っ張られているようでもある─中年男性が、他人の家の前に佇たたずんでいる私を横目で見ながら通り過ぎていった。その訝いぶかしげな視線は私をそわそわとさせた。

「オチアイが家を出てくるのを待て」

 デスクにはそう言われていた。

 一体いつまでここに立っていることになるのだろうか。落合とはどんな人間で、初めて会う者にどう接するのだろうか。私は急にそんなことが気になってきた。いつしか背中の汗は乾いていた。

 そのときだった。中二階ほどの高さにある玄関の方で「カチャン」という音がした。そこから続く階段を誰かが降りてくる足音がして、両開きの門扉から男が現れた。

 落合だった。

名刺を一瞥し、「ちょっと待ってろ」とガレージの脇を指さした

 ベージュのシャツにスラックスを穿いていた。眠そうに目を細めた落合は、ガレージの前にいる私を見ると一瞬、驚いたような顔をした。いつも通る道に見慣れない看板が立っていた、という程度の小さな驚きではあったが。

「オチアイは朝が遅いはずだ」と聞いていた私は、慌てて胸ポケットから名刺を取り出した。名前の上に『記者』とだけ書かれ、少し角が折れ曲がったその紙片を差し出すと、落合は親指と人差し指でつまんで一瞥した。そして、ふっと笑うと、「ちょっと待ってろ」とガレージの脇を指さした。

 私がシャッターの前に置いていた鞄を退けると、落合はガレージを開けた。閉じていたシャッターが軋みながら上がっていく。車庫に光が差し込む。中から現れたのはツートンカラーのスポーツカーだった。私の目には、赤と青という交じり合うことのない色彩が映った。

 私はそれを見て、もう一つ、落合の漠然としたイメージの断片を思い出した。