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18年も前なのに、焼き付いて離れない光景

 今しがた接した落合からは、暴かれたくない交渉過程を言い当てられた、という焦りはまるで感じられなかった。「恥かけよ」という台詞もごく自然に吐き出されたものに思えた。きっと中日の新監督探しはまだ続くのだ。そう思うと少し憂鬱になった。

 ただ、そうしたこととはまったく別に、私の頭に残っていることがあった。現実世界の中では浮いてしまうような、周りとまるで調和しないあの色彩、私の目に映った赤と青が落合にだけは妙にしっくりきていたことだ。

 小田急線からJRへ乗り継ぎ、新幹線で東京から名古屋へと帰る道すがら、私の頭には何の意味も持たないようなその光景が、ずっと焼き付いて離れなかった。

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 ─もう18年も前になるというのに、あの10月3日の朝のことをはっきりと覚えている。

世界の中でそこだけ切り取られたような個

 まさかあの後、8年に亘って落合と関わり合うことになるとは思いもしなかったが、その歳月で私が落合について知ったことは色々とある。

 なぜ語らないのか。なぜ俯いて歩くのか。なぜいつも独りなのか。

 そして、なぜ嫌われるのか。

 時間と空間をともにすればするほど人は人を知る。やがてそれは既視感となり、その人を空気のごとく感じるようになるものだ。

 ただ落合はそうではない。落合の印象は、今もあの朝のままだ。

 確かに同じ時を生きたのに、同じものを見て同じことに笑ったはずなのに、その一方で、自分たちとは別世界の理ことわりを生きているような鮮烈さと緊張感が消えないのだ。

 世界の中でそこだけ切り取られたような個。周囲と隔絶した存在。

 だからだろうか。落合を取材していた時間は、野球がただ野球ではなかったように思う。それは8年間で四度のリーグ優勝という結果だけが理由ではない気がする。勝敗とは別のところで、野球というゲームの中に、人間とは、組織とは、個人とは、という問いかけがあった。

 ぼやきとデータ野球の名将もこの世を去り、今やプロ野球監督の一挙一動がニュースのヘッドラインになることは少なくなった。球団には現実的な採算が求められ、指揮官とは一つの役割、歯車に過ぎなくなったのかもしれない。

監督としても輝かしい成績を残した落合博満氏 ©文藝春秋

今、あの歳月をもう一度追ってみよう

 野球はただ野球になってしまったのか……。そんな身勝手な喪失感に浸っていると、よく落合の言葉を思い出す。年月を経て、「ああ、こういうことだったのか」と腑に落ちる類のものであり、ひとりぼっちの夜にふと浮かんでくるような言葉である。

 何かを忘れてはいないだろうか。そうした自問があるから、今、あの歳月をもう一度追ってみようと思う。

 ある地方球団と野球に生きる男たちが、落合という人間によって、その在り方を激変させていったあの8年間を─。