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初の商業映画『HOUSE』

―― 『HOUSE』までに商業映画の企画というのは他にもあったんですよね。『花筐』を準備されていたとか。

恭子 『花筐』は監督が学生時代から好きな小説で、いつか映画にしたいというのが最初からあって。桂千穂さん(注3)に脚本までもう書いてもらってましたね。70年代の頭ぐらい。

―― 監督の中では、商業映画を撮るならこれだと準備されていた。

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恭子 そうですね。『花筐』を最初に撮りたいというのはありました。でも、それが全然違う『HOUSE』になっちゃうわけですけど。

©藍河兼一

―― 商業映画を撮ろうとしてもなかなかできなかった時代だったんですか?

恭子 できなかったというよりも、コマーシャルはフィルムで回してましたから、監督はそれに魅力を感じていましたね。

―― それが映画だという感覚だったんでしょうか?

恭子 そう。35ミリフィルムで回してましたから。1分、3分の短編映画みたいなつもりで。

千茱萸 監督は最後まで自分は映画監督ではなく「映画作家」だと明言していましたが、自身としてはジャンルや媒体にこだわることなく、常に実験精神に富んでいました。映像を作ることに対してとても自由な精神で取り組んでいた人なので、自主映画、CM、商業映画に対して特に垣根はなく、監督の中ではすべてが「大林映画」だったように思います。

『HOUSE/ハウス』撮影現場の大林宣彦監督 ©大林宣彦事務所

―― 映画監督というと映画の監督のイメージになっちゃうけど、映画作家というともっと広くて自由な感じでした。

千茱萸 それはきっと、監督と映画との特殊な出逢いが起因ではないでしょうか。監督は3歳のときに実家の納戸で映写機とフィルムを見付け、機関車のおもちゃだと思った。しばらく遊んでいるうちにそれが映画を映すモノだと知り、6歳のとき、アクシデントでフィルムがお湯に浸かり絵が消えたので、消えたフィルムのコマに絵を描いてアニメーションを作って……。つまり監督はそもそも映画監督になるために映画を作り始めた人ではなく、映画監督という職業の概念がないまま映画を拵え始めた希有な人ですよね。

 そして「商業映画を撮ろうとしてもなかなかできなかった時代だったんですか?」というご質問に関しては、商業映画を撮ることができなかったというより、時代の流れとして、前例がなかったというのが正しいと思います。つまり、個人映画作家が劇場にかかる映画を監督するという背景がなかった。映画監督になるのであれば、大学をちゃんと卒業して、東宝や松竹の試験を受けて、下積みからはじめ、助監督を経験し、ようやく会社が許して1本映画を撮るという時代。撮影所の外でコマーシャルや自主映画を撮っている人に門は開いてなかった。だから商業映画を撮れなかったとかそういうことではなくて、時代の背景がそういうことでした。