すべてを捨てて家に帰ろうと思っていた
地元の高校を卒業した山口は、すぐにでも女将修業をさせたかった祖母を説得して東京の短大に進学する。それというのも、在学中に自分がやりたいことをやり尽くして、そこから先はすべてを捨てて家に帰ろうと思っていたからだ(『週刊文春』2022年12月1日号)。
そのつもりが、短大時代にスカウトされてモデルの仕事を始めた。祖母には「モデルは長くやる仕事でもないし、社会勉強になるから」などと言い訳しながら、何とかして東京にとどまる理由をつくろうと足掻くも、モデルを3年続けるうち、自分には向いていないとも感じるようになっていた(with編集部『わたしたちが27歳だったころ』講談社、2022年)。『純ちゃんの応援歌』のオーディションを受けたのはそんな時期で、ダメ元であったが思いがけず合格する。奇しくも同作で演じたのは、甲子園球場の近くの旅館の女将になる役だった。それもあって祖母も朝ドラ主演を喜んでくれたという。
伝説の“ジェットコースタードラマ”にも出演
『純ちゃんの応援歌』が終わり、その年(1989年)の夏には『同・級・生』で民放ドラマに初出演した。朝ドラではスタッフが守ってくれていたが、そこからいざ一人になると、自分が何をしたいのか、どういう女優になりたいのか、よくわかっていないことに気づき、迷う時期が2、3年続いたという。
そこで一つの転機となったのは、1991年に『もう誰も愛さない』に出演したことだ。同作は、山口が主演の吉田栄作に足を舐められたり、ショッキングなシーンの連続だったことからジェットコースタードラマと呼ばれた。彼女によれば、《殺しとかレイプとか、すごい内容だったでしょう。それをまじめに受けとめて、考えすぎて私生活にまで持ち込むよりも、楽しんだほうがいいなと思ってやったら、結果がいいほうに出た。(中略)そしたら、だんだん自分のやりたいことも見えてき》たという(『ザテレビジョン』1994年2月18日号)。
その後、1993年の『ダブル・キッチン』、94年の『スウィート・ホーム』『29歳のクリスマス』、95年の『王様のレストラン』と、山口が30歳前後に出演したドラマはことごとくヒットした。そのジャンルも恋愛ものから、ホームドラマ、コメディと幅広い。