そしてもっとも恐ろしいのは「自己決定」というパワーワードである。
介護を要することになった高齢者のなかには、家族に迷惑をかけまいと「早く死にたい」という人も少なくない。「自己決定権」を尊重すべきだという人は、これらの人の「死ぬ権利」をも認めるべきだと言うのだろうか。
「家に帰れないなら死なせてほしい」と訴えた母
「死にたい」との発言も、本心ではなく、つい一時的に口から出てしまっただけのものかもしれない。家族に迷惑をかけている状況が本当にあるとして、それが改善されるなら、やっぱりまだ生きていたいと思うかもしれない。「自己決定」は、いちど決めても、その時その時で、いくらでも変わりうるもの、その認識が非常に重要なのである。
ACPにおける自己決定や、尊厳死法制化のもとでの「当人の明確な要請」が、「だって本人が言ったことなんだから、それがすべてじゃないか」と、マニュアル化された手続き上の一条件とされ、本人以外の人たちに、なんら熟慮も批判的吟味もされず粛々と運用されていく未来など、想像するだけで恐怖である。
私ごとだが、90歳になる母はこの夏に急性腎不全で入院した。もともと間質性肺炎もあり肺炎も併発していたことから、医師の私の目からみても、今回ばかりはもう長くないと覚悟した。
当の母のほうは、病院の環境に耐えかね、入院2日目に「今すぐに退院させてほしい。家に帰れないならもう死なせてほしい。退院させてくれないなら、ここで自死する」とまで、半狂乱で私に訴えたのであった。
私と主治医と母で話し合い、点滴治療は中止、即日自宅に退院した。そして帰宅後、「今後は入院はもちろんいかなる治療も私は拒否する」という意思を自発的に語る様子をビデオに姉がおさめた。自宅では、点滴も抗生剤投与もおこなわずに「自然な経過」で様子をみるにとどめた。
生後数カ月の初ひ孫に会ったら…
帰宅してもしばらくの間は「もう早く死にたい。あなたたちの世話になりたくない」ばかり繰り返していた。だがその後、少しずつ食事を摂るようになり、非常に危機的な状態からは少しずつ脱していった。