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「尊厳死の法制化」の条文を考えてみる

そもそも「終末期」の定義自体がきわめて困難であることを、私たちは自覚せねばならない。医師はもちろん、とくに医療の専門家でない政治家が「尊厳死の法制化」をもし語るのであれば、この点についてはきわめて謙虚かつ自覚的でなければならない。

ではここで「尊厳死の法制化」について考えてみよう。まず以下の条文を読んでみていただきたい。

第一条 不治の病にあり、本人自身または他人に対して重大な負担を負わせている者、もしくは死にいたることが確実な病にある者は、当人の明確な要請に基づき、かつ特別な権限を与えられた医師の同意を得た上で、医師による致死扶助を得ることができる。

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いかがだろうか。「尊厳死の法制化」に賛成する人は、このような条文さえあれば、生きていくことに大きな苦痛を感じている人に「死ぬ権利」と希望を与えることができるのではないか、と思うかもしれない。

このような条文であれば、当人の自己決定権も担保されているし、特別な権限を持つ医師の同意まである。そして致死扶助をおこなった医師も殺人や自殺幇助の罪に問われることもない。危険な優生思想につながることなどあり得ない、と考えるかもしれない。

しかし本当にそう言い切れるだろうか。

本人の意思さえあれば、命を終わらせてもいいのか

たとえば「死にいたることが確実な病」を、別の言葉で言えば「回復の可能性がなく」もしくは「死が間近」という表現にもなろうが、その判断はじっさいの臨床現場ではきわめて難しい。それゆえに議論となっているとも言えるのだ。法制化すれば、その難しい判断を条文に「当てはめ」ねばならなくなり、かえって現場や当事者は混乱に陥り困難に直面するだろう。

いや、むしろ混乱するならまだマシだ。難しい臨床判断を条文へ「当てはめ」ることを第一にと考えるあまり、これまで悩み熟慮することによって保たれていた生命への倫理的思考が、マニュアル化・ショートカット化されていくことのほうが危惧される。