1ページ目から読む
3/3ページ目

 韓国の文化では「ウリ」と「ナム」の境界はさまざまに変化する。以前は「ナム」だった人が「ウリ」として結束することもあるので、最初から人間関係に線を引いて、のちのち不利になるような状況をわざわざ作る必要がないのだ。初対面の人にも気軽に年齢や出身地を尋ねて自分との共通点がないかを探り、少し親しくなると「ヒョン〔兄さんの意〕、トンセン〔弟の意〕と呼び合って仲良くしよう」「オンニ〔姉さんの意〕と呼んでもいい?」などと距離を縮めようとする。韓国の文化ではしばしば見られるそうした社交的行動は、「ウリ」の範囲を積極的に広げようとする意図とも読める。

 それに比べ、日本の「うち」「そと」「よそ」を分かつ壁は高く、個人的な社交術や話術で乗り越えるのは容易ではない。結婚や入学、就職、開業といった公的なきっかけなしに「うち」の共同体に加わるのは難しい場合が多く、それゆえ、私的な人間関係を広げることにはやや消極的だ。外国人の目に、日本人が内向的、シャイだと映るのはそのためだろう。見知らぬ人との壁を壊す方法よりも、決められた人間関係の中で適切に行動する方法を模索してきた文化的習慣が反映されているのだ。

それぞれの文化にはそれぞれの課題がある

 ダイナミックさや人間味にあふれる韓国の文化に比べ、日本の人間関係は冷たくドライだと感じる読者がいるかもしれない。だが、どちらのほうが良い、悪いと評価することはできない。

ADVERTISEMENT

 他人との距離をいきなり縮めようとする積極的な社交文化が負担だという韓国人は意外と多いし、「そと」に対しては丁重に接するべきという礼儀作法が窮屈だという日本人も少なくない。

韓国・ソウル ©︎AFLO

 韓国社会では、情の深い人間関係が、期せずして地域感情〔慶尚道(キョンサンド)と全羅道(チョルラド)など、地域間で見られる政治的な対立感情。地域義主〕を刺激するという逆効果を招くことが少なくなかった。特に「ウリガナミガ〔仲間じゃないか、の意〕」精神が政治や資本など権力に近いところに根づいたという点は、批判的な目で省察する必要がある〔本来は「困ったときはお互い様、助け合おう」という意味の言葉だが、1992年の第14代大統領選挙の直前、慶尚道出身の法務部長官(当時)が非公式の場で「(慶尚道出身の)候補者の得票のためには人々の地域感情を焚きつける必要がある」との趣旨で用いたことが発覚し、地域感情を扇動したと大問題になった〕。

 一方、日本社会では、「よそ」に対する冷淡さが、外国人への根深い反感や差別を合理化してしまうケースがしばしばある。コロナ禍以降、「よそ者」に対する日本社会の情緒的な距離感がますます大きくなっているのではないかと気がかりだ。それぞれの文化にはそれぞれの課題があるということだ。