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 韓国では「お父様がお食事を召し上がっていて……」や「わが社の社長様がおっしゃっていたのですが……」と敬語を使うのが自然だが、日本では「父が食事をしていて……」あるいは「弊社の社長、鈴木の方針は……」のように低めて話すのが正しい話法だ。

 基本的に「うち」と「私」の社会的地位は同等とみなされるため、日本語で自分の父親を高めて話すと、まるで「わたくし様がお食事を召し上がった」と、自分に敬語を使っているような不自然な印象を与える。

 また、「うち」の過ちはすなわち「私」の過ち、という公式も成立する。共同体の構成員の過ちに対し連帯責任をとるのは、「うち」の分別ある大人の態度だ。それゆえ、配偶者の過ちは夫婦がともに反省すべきもの、構成員のミスは会社全体で責任をとるべきものと考えられるのだ。

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 韓国にも、「ウリ」でくくられる親しい人に対して連帯責任を問う情緒が、ある程度は存在する。だが、連帯責任を負うかどうか、どのあたりまで負うかについては、各自の道徳的基準に従って個人が判断するものと考える傾向が強い。それに比べ、日本の文化では「うち」に対する連帯責任は一種の社会的規範となっている。「うち」に対する強い責任意識が、信頼できる社会人の必須条件なのだ。

 それゆえ、先に紹介した芸能人夫婦のように、被害者が謝罪するという奇妙なケースが発生する。芸能人は、プライベートなことが外部の活動に大きな影響を及ぼす特殊な職業だ。私的なことに対して公的に責任をとらねばならないというジレンマがある。私的には不倫のせいで傷ついたとしても、公的には、配偶者の非に向き合う「成熟した」社会人の姿をアピールする必要があるのだ。夫のための犠牲を妻の美徳とする家父長制的な考え方も影響していただろう。

日本人が内向的に見える理由

「ウリ」の反対の概念である「ナム」も、日本では、それぞれ微妙にニュアンスの異なる「そと」と「よそ」という2つの概念に分けられる。「うち」に属していない部外者のうち「そと」は、社会的に良い印象を与える必要のある相手を指す。ビジネスパートナーや仕事上の顧客、子どもの通う学校の先生など、社会的な利害関係で結ばれている人たちだ。一方、「よそ」は、社会的交流が一切なく、今後もその可能性のない相手を指す。道ですれ違った人や見知らぬ人などが該当し、外国人もこの範疇に入るとみなされる。

 あえて「そと」と「よそ」を区別するのは、社会的態度や期待感が異なるからだ。「そと」に対しては礼儀正しく振る舞い、相手も丁重に接してくれることを期待する。互いに信頼に足る社会人であることを示す必要があるからだ。一方、あえてそうする必要のない「よそ」に対しては無礼な態度をとることもある。ビジネスの関係では過剰なほど親切な日本人が、通りや電車の中で出会った人には無関心だったり、時には冷たい態度をとったりすることもある。意図的に相手を選んで行動しているというよりは、「そと」と「よそ」に対する態度の違いが無意識に現れているのだ。