「面倒臭えから、さっぱりやってもらいやしょうぜ。なあに、早く死刑になったほうが、さっぱりしてようがさあ」

 全国の尼僧(出家した女性)を手にかけたことでついたあだ名は「殺尼魔(さつにま)」…。明治、大正にかけて10人以上の女性の命を奪った殺人鬼はどんな最期を迎えたのか? 新刊『戦前の日本で起きた35の怖い事件』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む

明治、大正の世を驚かせた殺人鬼「殺尼魔」と呼ばれた男の末路とは…。写真はイメージ ©getty

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ついに犯人の身元が特定できた理由

 翌1915年(大正4年)1月には鎌倉の感応寺に押し入り、美人尼僧として評判の教道(同21歳)を強姦・殺害し衣類数点を強奪。大米によれば、教道とは以前から情交関係にあったとのことで、後に犯行の模様を次のように語っている。

「(情交の後)お前は男好きの堕落尼僧なのだ、と私が言ってやりますと、教道はひどく腹を立てて生け花用の花バサミを持ってかかって来ましたから、私はハサミを取り返し、教道尼の喉を突いて殺したのであります。このとき、裾が乱れて陰部が見えましたから、意趣を晴らすために陰部も突こうと思ったのですが、これは実行しませんでした」

 同年5月、大阪府下の三島郡の慈願寺に押し入り、住職を殺害し金品を奪い、7月初めに再び上京。杉並村阿佐ヶ谷の尼寺、法仙庵で69歳の尼僧を強姦したうえ、現金5円と衣類19点を強奪、逃走した。一命を取り留めた尼僧は犯人の風体をしっかりと憶えており、証言によれば「年齢40歳前後。丈5尺2寸(約157センチ)ぐらいの色白の男で、鼻筋が欠けている」との特徴を持っていた。

 ちなみに2ヶ月前の同年5月頃、富山出身の前科三犯の46歳の男性が一連の尼僧殺しについて自供したとの報道がなされたが、これは完全な誤報である。男は警察の拷問による偽の自白を強いられており、大米の被害関係者による面通しでも「こんなに良い男じゃない」と否定されたそうだ。

 神奈川の警察と警視庁が競い合うように捜査を進めていくうち、法仙庵で奪われた衣類が芝露月町(現在の東京・麻布)の古着屋で発見される。売主は鼻筋の欠けた男で「松本四郎」と名乗っていた。その他にも被害に遭った全国の寺の住職やその関係者たちの証言から、鼻筋が欠けた男の情報が次々と浮上し、大米が人相写真をつけて全国に指名手配される。

 同年8月、パナマ帽を被った松本四郎とみられる男が女と一緒に新橋駅から22時40分発の博多行きの列車に乗ったという情報が同駅員から寄せられ、博多駅に狙いを絞った福岡の捜査員が同駅前で待ち構えた。と、15時過ぎ、荷車に荷物を積んだ松本らしき男と、その連れ合いの女性が駅に姿を現した。