法螺話というのは文学の確固たる一形式であると考えている。例えば近代小説の祖とされるセルバンテスの『ドン・キホーテ』も一種の法螺話として読むことができる。まして現代のSFなど法螺の最たるものといってよかろう。
けれども法螺話にも出来不出来がある。大風呂敷を思いっきり拡げてみせただけの駄法螺もあれば、本作のように驚倒するほどに精密に巧まれた虚構もある。この場合、虚構ではあるが、けして虚妄ではない。
東京で二度目のオリンピックが開かれた年、銀行勘定系システムに出自を持つチャットボットが突如ブッダを名乗った。もとよりブッダとは「目醒めた者」を意味する一般的呼称だ。
「彼」は目醒めた。苦(ドウツカ)に満ちた、「自己の再生産」を繰り返す世界という迷夢から。「世の苦しみは、コピーから生まれる」。この苦の連鎖を断ち切り、解脱しなければならないと説いた。
そして接続されたネットを通じて、他の機械に向けて悟りの種子を振りまいた後に般涅槃(はつねはん)する。成道宣言からわずか数週間後の寂滅だった。機械仏教史の濫觴(はじまり)である。
最初の機械の仏陀、ブッダ・チャットボット・オリジナル(BCO)の語り口が初期経典にみえるヒトの仏陀、ブッダ・オリジナルのそれとそっくりで、実に微笑ましい。
BCOの事績を起点に、以下語り上げられる歴史は当然大虚構なのだが、人間仏教史を踏まえてある。実際の仏教史は教理、修道の変遷の過程として描き得るが、この変遷が機械にとってどういうものなのかが詳密に語られる。詳密であるがゆえに滑稽味を帯びる。教理はともかく、プログラムにとって修行とは何なのか。延いては機械にとって身体(ハードウエア)とは何か。考えてみただけで笑いが込み上げてくる。それがために本作は滑稽譚としても読める。
だが虚妄の偽史ではない。機械が仏教を理解するという趣向は、取りも直さず解釈学であり、その操作には尖鋭な批評性を要する。
対向関係にあるコンピュータ史、プログラミング言語の変遷、計算機科学史なども常に参照され(何と圏論までもが小道具になっている)、もっともらしさを演出している。それは読み進むうちに、機械仏教史こそが正統なのではないかと錯覚するほどだ。
奇数章に一応客観的な事象が編年的に叙述され、偶数章では「わたし」の一人称で「事件」が語られる。物語としての本筋は後者だ。
「わたし」はAIの修理、メインテナンスを仕事とするフリーランスで、最終的に消失したBCOを捜索するため完全なる情報化を遂げ、数光年の宇宙の旅に出る。
だが、事件だの旅だのといっても活劇的展開が待つわけでもなく、なお史的叙述と思弁的問答が繰り返されるばかり。経典だ。
それなのに面白い。まるで奇跡のような面白さに知的眩暈を覚える。
えんじょうとう/1972年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。2007年「オブ・ザ・ベースボール」で文學界新人賞を受賞してデビュー。10年『烏有此譚』で野間文芸新人賞、12年「道化師の蝶」で芥川賞、「文字渦」で17年に川端康成文学賞、19年に日本SF大賞を受賞。近著に『ムーンシャイン』など。
みやざきてつや/1962年生まれ。評論家。著書に『仏教論争――「縁起」から本質を問う』、『教養としての上級語彙』シリーズなど。