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中央制御室 未明の志願

 霞が関で小森がベント方針について説明を二転三転させる苦しい会見をしていた頃、中央制御室は、ベント準備の動きがほぼ止まり、重苦しい空気に包まれていた。

 室内では、運転員たちが防護服姿に全面マスクを着けて膝を抱えるように床に座っていた。地震発生時、中央制御室には、当番だったA班の運転員14人と操作を補佐する作業管理グループの10人がいたが、非番だった別班の当直長や当直副長が次々と応援に駆け付け、その数はおよそ40人に膨れ上がっていた。

 部屋のほぼ中央にある当直長の机には、原子炉建屋の図面やマニュアルが広げられていた。当直長と、駆け付けた別班の当直長らリーダー格の5人がホワイトボードにベントの弁の位置や開ける手順を書き込み押し黙っていた。その後方に控えるようにしゃがみ込んでいた運転員たちは、部屋の2号機よりのスペースに肩を寄せ合うように集まっていた。

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中央制御室 写真提供:東京電力

 50メートル先の原子炉建屋から放射性物質がひたひたと忍び寄っていた。放射性物質を遮る換気装置が電源喪失で止まってしまい中央制御室でも天井近くや原子炉建屋に近い1号機側のスペースから放射線量が上昇し始めていた。このため運転員は、少しでも被ばくを避けようと2号機側にしゃがみ込んでいたのだ。運転員の中には、30代前半や20代の若い社員も少なくなかった。入社8年目の井戸川隆太(26歳)もその一人だった。

 井戸川は、非番のD班の主機操作員だったが、地震直後、自発的に応援に駆け付けていた。原子炉水位や格納容器圧力の調査に奔走していたが、この頃になると、ほぼやることはなくなり、指示を待つだけとなっていた。放射線量の上昇に、井戸川は異常な状態だと感じていた。もはや悪化するのみなのだろうか。「もう駄目かもしれない。最悪、死もあるかもしれない」そう思っていた。しかし、そうした思いは決して口にも顔にも出すことなく、なるべくマイナスに考えないように、時折、同僚に世間話風にとりとめのない言葉を掛けたりしていた。

「やばい。逃げたい」

 30代のA班の運転員はそう思っていた。怖かった。おそらく周りの仲間もそう思っているだろうと感じていた。だが、その思いを口にすると、みんながパニックになるだろうから、決して誰も言わないと思っていた。ひたすら格納容器もってくれと祈っていた。

 時折、沈黙を破るように当直長机のホットラインのベルが響いた。その瞬間、座っていた運転員たちの視線が一斉に当直長に集まった。当直長は、いつもと変わらず落ち着いた声で免震棟と何事かをやりとりしていた。「この人だから」30代の運転員は、思った。「パニックを起こさないでいられるのかもしれない。僕らも冷静でいられるのかもしれない」当直長は怒鳴ることも焦るそぶりも見せなかった。いつも通りだった。